過日、朝刊の文化面に「だるまさん絵本作家の素顔」と題する記事を見つけた。
千葉県の特別支援学校の教師として30年近く障がい児と接し、50歳で絵本作家としてデビューして僅か4年で急逝した「かがくいひろし」さんについての記事だった。
私は寡聞にしてかがくいさんのことを知らなかったので、その絵本の世界に感心させられたのだが、
》ものを形作ることを通して、子供は生きる意味や価値を見出していく
という一節に心を惹かれた。
ちょうど、岡部宏生の「being」や、Nさんの「何のために生きているのか?」というフレーズにいろいろな思索を重ねているころだったので、「生きる意味」というフレーズに反応したのだと思う。
先の一節の前段には、
》重度障がいのある子どもを両ひざに抱き、…さまざまな創作物で遊んだり、
》わずかに動く手をとって一緒に作ったりもした。
という一文が記されていた。
「ものを作ることで生きる意味や価値が見いだせるのか?」
という疑問を持ちながら、岡部宏生の晩年を思い浮かべると、確かに彼は、眼球しか動かせない身体でありながら、会社を運営したり講演を重ねたりしていたし、著作も刊行した。自身の手で何かを作るわけではないけれど、ただただ受け身に「生かされている」状態とは無縁の人生だった。それが「何かを作る」ということなのかもしれない。
例によって、Googleで「生きる意味」と入力してみると、
》「生きる意味」に絶対的な正解はなく、
》「自分で意味や価値を創り出していくプロセスそのもの」だと言えます。
》明確な目的を持たなくても、日々の小さな喜びや人との関わりの中で、
》心が動く瞬間(瞬間的な意味)を重ねていくことが大切です。
と記されていて、Web上のいくつかの記事が紹介されていた。
もとより「生きる意味」というフレーズは特別なものではないし、だれもが一度は思い浮かべたことがあるような普遍的な問いなのだと思う。だからあえて「調べてみる」ようなことでもないのだけれど、晩年の岡部宏生は、「生きる意味について話し合える相手」を探し求めていたようだ(そのようにどこかに記録されていた)。でも、眼球と文字盤によるコミュニケーションでは、語り合える相手に遭遇する機会はほとんどなかったに違いない。すくなくとも、私との会話のほとんどは事務連絡だった。
でも、
「自分で意味や価値を創り出していくプロセス」
という説明は、結局のところ、「自分で決める」ということでしかない。
そして、「今、生きている」という実感を持てたとしたら、それが「生きる意味」だということなのかもしれない。だとしたら、
》日々の小さな喜びや人との関わりの中で、心が動く瞬間を重ねていく
ということができているのならば、「生きる意味」について疑問を抱くことはないということになる。
眼球しか動かすことができなかった岡部宏生だけれど、「心」は動いていたのだろう。
そういえば、最近の私は、どんなときに「心が動く」のだろうか?
Wasedaウェルネスネットワーク会長・中村好男