WWNウエルネス通信 (2026年6月28日):「プラセボの不思議」について考えてみた

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私たちは、プラセボ効果が確かにあることを信じている(だから比較対象試験を行う)。

にもかかわらず不思議なことに、プラセボの治療効果を本当の効果だとは受け入れない。

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もう、30年以上前のことだろうか。

とある本を読んでいて、上記のような文章に出会った。

今となってはどの本に著わされていたのかも不明で、元の記述を確認していないので、文字表現自体は不確かなのだが、当時の私にとっては強烈なインパクトをもって記憶に留まることになった。プラセボとは、有効成分を含まない偽薬のことで、新薬の臨床試験(治験)で薬の真の効果を検証するための比較対照として用いられる。

どうして、新薬の治験でプラセボとの比較対照が行われるのかというと、有効成分が全く含まれていない「偽物の薬」であっても、「本物の薬だ」と信じて服用することで、実際に症状が改善してしまうこと(プラセボ効果)があるからだと言われている。

そもそも、「偽物の薬」と「本物の薬」が存在する(区別する)という考え方があったとして、その線引きはどこにあるのかというと、上述の説明によれば、それは「有効成分」の有無ということになる。決して、その薬の「効き目」の有無で区別されるわけではない。だから、飲んだ薬の効き目が表れなかったとしても、その薬を「偽物」という人はいない。(一般の人には効き目があるのに)「たまたまその時の私には効かなかっただけなのだ」と解釈されることになる。

このような考え方は、昨今の社会では当たり前のことなのだが、ここではそれを「成分中心主義」とでも呼んでみることにする。これとは逆に、「効果中心主義」という考え方もあって、その考えに立てば、効果がある(症状が治る)薬が本物で、効果がない(症状が治らない)薬が偽物ということになる。誤解されるといけないので慌てて付け加えておくと、この「効果中心主義」は、私が今ここで勝手につけた名称なのであって、世の中には認められていない考え方なので、真に受けないようにしていただきたい。

それはさておき、上記は「薬」の話だったから、「成分」と「効果」のどちらが真偽を分ける判別基準となるかという話だったわけであるが、これを「理論」と「体験」というように言い換えると、「薬」の話に限らずに一般化できる。

どういうことかというと、例えば膝が痛くて医者に診てもらったとする。画像診断の結果「異状なし」ということになったとしたら、医者は「異常はありません、気のせいですね」ということになるかもしれない。このときの膝の痛みは「本物」なのだろうか、それとも「偽物」なのだろうか。「膝の痛みは画像診断によって判定できる」という「理論」に基づけば「痛みは気のせい(偽物)」ということになるのだけれど、痛みを感じている本人の「体験」を判断基準にすれば「本物」としか言いようがないだろう。前者のような考え方が「理論中心主義」であり、後者の考え方が「体験中心主義」だ。

そもそも、科学(あるいはそこから導かれる理論)というのは、一人一人の個性(個人差)を捨象して成立する。「有効成分」の「効果」を確かめるために100人に治験したとして、中には効き目を表さない人もいるかもしれないのだけれど、多くの人に効果が認められる(平均値が有意に改善される)のであれば「本物」として認定される。そうなると、服薬したのに治らないという人がいたとしても、その薬が「本物」であることは決して疑われない。これが「理論中心主義」だ。

これに対して、「体験中心主義」では全く異なる考え方をする。つまり、医療の理論によってつけられた病名に適応(理論的に効果がある)とされる薬を服用したとしても、その薬に効果が認められなかったとしたら、その人(体験)にとっては「偽物」となる。逆にもし、有効成分が含まれていないプラセボだったとしても、効果が認められたとしたら「本物」ということになる。画像診断(医療理論)で「異常なし」と判断されたとしても、その人が感じる痛み(体験)は「本物」なのだ。

と、こんなことを考えながらネットで調べているうちに、「プラセボ効果を応用した代替医療や民間療法の仕組み」についての研究もずいぶんと進んでいることがわかった。

ということは、「理論」と対峙して私が思いついた「体験中心主義」も、そのうち研究が進んで「理論」になったりするのだろうなと、少し不安になったりもした。

Wasedaウェルネスネットワーク会長・中村好男

http://wasedawellness.com/

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