「何のために生きているのか、わからなくなっちゃって」
過日、ウォークの最中に、一緒に歩いていたNさんが突然語りかけてきた。
私は即座に、
「目的がないとだめですか?」
と応答した。
どうやらNさんは、「毎朝起きて、歩いて、食事して、寝て」という毎日の繰り返しに飽きてきたのかもしれないし、「本を読んでもばかばかしく思えてしまう」という状況に達成感を持てないのかもしれない。自身の行動によって社会に何らかの貢献を果たすことが「生きる意味」だと思っているのかもしれない。
そこで私は、
「私は生きているだけで十分幸せですから、『何のため』とか『生きている意味』とかは考えないようにしています」
と、Nさんに語った。
以前述べたように(https://yoshionakamura.jp/2026/05/10/wwn-208/)、「何かを果たすこと=doing」も大切だが、それよりも「生きていること=being」自体に意味があると訴える岡部宏生の考え方に、私は100%賛同している。だからといって、「生きているだけで良い」というつもりは毛頭ないし、岡部はそもそもALSで眼球だけしか動かない自身の身体を前提として、「ALSを患って動けなくなっても、生きている=beingだけで十分に価値があるのだ」と主張していたわけで、私のように五体満足で自由に動けるものが「being」とか言うのも僭越なのだけれど、「何のために生きているのか」とか「生きている目的が見当たらない」と思い悩むよりは、「生きていること=being」だけで十分に喜ばしいことなのだと思える方が幸せだ。
でも、そもそも「何のために生きている=生きる目的」とはいったいどういうことなのだろうか。
なぜ私たちは「何かのため」に行為や行動しようとするのだろうか。
あるいは、私たちの行為や行動には、何らかの「意味」が必要なのだろうか。
そりゃ私だって、「何かのために行う仕事」はたくさんある。
でも同時に、「何もしないでボオッとしている時間」も結構ある。
ウォークの際にも、「参加者の安全管理のための行為」もあるけれど、「ただただ歩くだけの時間」もあったりする。
Nさんも、「何かのために費やす時間」もきっとあるのだと思うのだが、おそらくは、「何かのためではない時間」がずいぶんと多くなってしまったのではないかと思う。
とすると、「何かのための時間」と「何かのためではない(ボオッとする)時間」の多寡を比べた時に、後者が多くなってきて前者の割合が少なくなってきたときに、それを「寂しい」と感じるかどうかが問題なのかもしれない。
今のところ私は、前者の時間が圧倒的に多いので、「何もしないでボオッとしている時間」を喜んだりいつくしんだりしているだけなのかもしれない。
私としては、定年退職後の生活を見据えて「何もしない時間を増やすこと」を「目標」としているのだけれど、ほとんどの時間を「何もしない」で過ごせるようになったときに、果たしてそれに耐えられるようになるのかどうか。
それが、私が立ち向かう「試練」なのかもしれない。
あれっ、結局私は、いつまでも「目標」を目指して「試練」を設定しているようだ。
つまり、私はずっと「何かのために生きる」という束縛から逃れられないということなのか?
Wasedaウェルネスネットワーク会長・中村好男