前回(10月25日)、「歩けないことは絶望的なのか?」という問いかけを配信した日に、ある方(88歳・女性)から相談を受けた。膝痛の治療として受けていたヒアルロン酸注射について、かかりつけ医から「やっても意味がない」と告げられたとのこと。両膝内側の半月板が喪失したレントゲン写真とともに、医師から渡されたという「運動のやり方」を示す説明書を見せてくれたのだが、「涙があふれてきて説明を聞かずに帰ってきた」と言う。「いろいろな方の意見を聴きたい」とのことで、その一人として私の意見も求められたのだった。
私はまず、「痛いですか?」と尋ねてみた。
というのも、シルバーカー(歩行補助器)を押して会場まで歩いて来れたのだし、私に話をしながらも立ち続けているので、「激痛に堪えられない」というほどではないと感じたからだ。
すると、「普段は痛くないが、時々痛くなる」という。
ならばと、
「痛くならない動き方を探ってみては如何でしょうか?」
と、アドバイスしてみた。
それにしても、見せていただいたレントゲン写真は、手術を必要とする状況には思えなかったし、「ヒアルロン酸注射が無意味」と告げた医師の言葉は誠実なものだったと思う。それなのに、「涙が止まらない」ほどの絶望感に見舞われたということ?
もしかしたら、「治療ができない」ということへの絶望だったのかもしれないし、「動けなくなってしまうかもしれない不安」に襲われたのかもしれない。その方の心の中を読み取ることはできなかったのだけど、「歩けない絶望」を救う方策について考え始めていた時だったので、自身の身体を調えることに熱心な方が、しかもまだ歩けているにもかかわらず、そのような絶望感を抱くことに驚いたのだった。
これまで私たちは、早稲田ウエルネスの活動を通して、「痛くても動けるからだ」を目指そうと試みていたのだけれど、「動けるからだ」を目指すことは、一方で「動けなくなることへの不安」を煽ることにもつながりかねないのではないかとの懸念も感じた。
「健康な身体」を求めることが「不健康への不安」を扇情するのだとしたら、「健康」を求める想いを少し「おやすみ」させることも役に立つのかもしれないかな?
もしかしたら、「何かを目指すこと」は「達成できない絶望」を表裏の関係なのかもしれない?
難しすぎる問いに思いを巡らせた日曜日だった。
Wasedaウェルネスネットワーク会長・中村好男