WWNウエルネス通信 (2024年4月24日):「身体に宿る個人」からの開放~パンデミック対策から考える

採択できるか「パンデミック条約」 技術移転など対立深く

4月21日、日曜日の日経朝刊に掲載されていた表記見出しに目が留まった。

「新型コロナウイルスへの対応で得られた教訓をもとに、次のパンデミック(世界的大流行)に世界が協力して備える――。だれもが趣旨に賛同したはずの「パンデミック条約」が、約2年におよぶ交渉を経てなお合意に至らない」とのこと。

合意を妨げてきた大きな論点の一つが、「病原体の試料や遺伝子データを、製薬企業などが素早く入手して薬の開発に生かす仕組みを巡る対立」であり、もう一つが「技術移転(製薬会社の特許を一時的に放棄すべきという意見)」に関する対立なのだという。

 でもこのような対立があるということは、どちらも「ワクチンの開発普及がパンデミックへの最重要対策」と認識しているということであり、(ワクチン遺伝子情報をいち早く入手する)製薬メジャーを有する欧米がワクチンを囲い込んでしまって安価なワクチンを自主開発できない(したい)途上国の不満が合意を妨げる鍵になっていることを意味している。

 ところで、そもそもどうして「新型ウイルスの拡大」に対する戦略の柱が「ワクチン」なのだろうか。「ワクチンが有効か否か」ということではなくて、私たちはあまりにも「薬」に頼り過ぎているのではないか。もちろん私は、病気に対して「薬」という対策を講じることを否定するつもりは毛頭ないけれど、「薬」という方策は、「病」という私たちの問題が「一人一人の身体の中で発生している(個々の身体を治すことで問題解決を図ろう)」とする考え方に基づいている。それは「個人主義的人間観」に由来するものであり、疫学的な方策はすべて「統計学的人間観」が駆動するものなのだ。

 「ウイルスによって個々の身体が侵される」という考え方は「ウイルスを撲滅させる」という思想へと発展し、「ウイルス」と共に「ウイルスに侵された身体=個人」への排除・差別へと視線を移行させて、「ウイルスに近づいた個人」さえも排除しようとする心持へと昇華してゆく。2020年2月15日に大阪で開催されたライブで、日本で初めてのクラスター感染が確認されたとき、ライブの開催者には抗議の電話が殺到し、後に「ウイルスより人間怖かった」とも報じられた。

https://mainichi.jp/articles/20210216/k00/00m/040/141000c

また、ライブに参加した人の中には、「職場に来るな」と糾弾されて自死した方もいたと聞く。その後2か月ほどは、まるで、鳥インフルエンザが見つかった養鶏場の鶏が焼却処分されるかのように、「感染リスク者の排除」が全国的に広がったのだ。

 もちろん、私は鶏と人とを同一視するような考え方には全く与しない。そのことを強調したうえで、「個人の命は何よりも大切」と訴える個人主義的人間観においても、「異物排除」の思想が存在することと、それによって「自死」が導かれる圧力が生まれるという事実から目を背けられないだろうということを訴えたいのだ。

 先に、磯野さんの著書「他者と生きる」を紹介しながら「関係論的人間観」について解説を試みたが、この「関係論的人間観」によってパンデミック対策を考えたとしたら、全く違う戦略が想定される。でも、惜しむらくはWHOのパンデミック対策の中で、「ウイルスと共に生きる」という方策がどれだけ検討されたのかという話は、なかなか聞こえてこない。

もしかしたら、WHOが目標とする「健康」は、単に「個々の《身体》に閉じ込められた個人」あるいはその「身体」しか対象にしていないのだろうか。私たちは「他者と共在」する形でしか生きられないのに、国連が主導する「健康」が「個人主義的人間観」いわんや「統計学的人間観」だけしか眼差さないのだとしたら、とても悲しい。

「一つの身体の中に一人の個人が宿っている」という思想の呪縛から、私たちはどのようにしたら自由になれるのだろうか。

Wasedaウェルネスネットワーク会長・中村好男

http://wasedawellness.com/

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