WWNウエルネス通信 (2024年4月20日):「他者と生きる~(2)平均人=統計的人間観」

さて、前回、磯野さんが「他者と生きる」という近著の中で語っていたことの中から「平均人」について少しだけ紹介した。

WWNウエルネス通信 (2024年4月19日):「他者と生きる~(1)平均人という常識」

「平均人」を理解するためには、例えば、「初めてランドセルを背負って通学する新入生」を想像してみると良い。このように語るとき、私たちはある一定の「小学一年生」の姿を思い浮かべる。そのイメージにぴったり当てはまる子どもがどこにいるのかと問われても、その当人を特定はできない。でも、そこにはおおよその「平均的」な姿がある。身長で表現すれば120cm程度。どこにでもいそうな一般的なイメージは、私たちが観察体験する姿の平均値として現れる。もちろん、すべてが数値化されているわけではない。服装や立居振舞いのように数字で集計できないようなことも含めた「平均人」を私たちは想像することができる。

このような「平均人」の姿は、私たちが普段から接している人口統計から導かれることが多く、そのような人間の表し方(理解の仕方)を「統計的人間観」と呼ぶ。先に、「平均人」とは統計学的に導かれた人間像のことと申し述べたが、じつは「平均人」という言葉が提唱されたのは19世紀のことであり、数値による計測や統計の手法がどんどんと進化した20世紀を経て、「平均人」が「統計的人間観」として発展してきたと言っても良い。

もう少し回り道をお許しいただきたいのだが、この「統計的人間観=平均人」は、例えば私たちが「イヌ」とか「ウマ」という言葉を使う場面を想像するとわかりやすいかもしれない。牧場に放牧されている馬を目にしたときに「あっ馬だ!」と叫んだとしたら、その人にはその対象は「ウマ」に間違いない。でも、その「ウマ」を買っている牧場主にしてみたら、一頭一頭に名前がついていて、個々の「ウマ」に対して「ウマ」という呼び名を使わない。犬も同じだ。自分が勝っている犬に対して「イヌ」と声をかける飼い主はいないだろう。つまり、一人一人の子どもに対して、個々の名前を使わずに「子ども」という表現をするとき、そこには「平均人」としての「子ども」がいるだけで、その対象者の人生(生きている時間)は含まれない。

さて、忘れないうちに慌てて元に戻ると、磯野さんは「平均人」のことを「統計学的に導かれた人間像」のことだと述べたうえで、「平均人の病の語り」という文脈でそれを紹介している。例えば、「高血圧だと脳梗塞にかかりやすいというエビデンスがある」としたとき、「高血圧」という属性を付与された人に対して「脳梗塞にかかりやすい人」という特性があると断定するのが「統計的人間観」だということになる。高血圧でも脳梗塞にならない人もいるし、高血圧でなくても脳梗塞を発症する人はいる。しかしながら、統計的人間観で「高血圧」という人を特徴づける限りは、前者のような人は「運のよい人」で、後者は「運の悪い人」ということになる。専門家が研究成果として疫学的なエビデンスを発信するとき、単なる「リスク」に過ぎないエビデンスであっても、「AというエビデンスはYという特性を持つ人々にとっての真実である、という色を強く帯びた可能性のファクト化がなされていく」と、磯野は語る。このように生み出された無数の「平均人」は、便宜上の表現ではなく、集団の本質的な特徴を表す客観的事実として人々に共有されていく。

そう言えば、コロナ騒動の始まりの2020年2月のこと。最初のクラスター感染が報告された大阪でのライブハウスに参加していた方々は、直後に「穢れた人」であるかのようなスティグマを着せられた。これもまた、疫学的エビデンスから産み出された「平均人」の一つの姿だったのだろう。

「太っている人」は「健康管理をしなければならない人」であり、「タバコを吸う人」は「肺がんで死ぬ人」であるとともに「世間に迷惑をかける人」というスティグマが付与される。そのとき、「太っていても健康で幸せに生きる」という自由が少しだけとはいえ束縛されていることに、多くの人は気づかないのだ。

(続)

Wasedaウェルネスネットワーク会長・中村好男

http://wasedawellness.com/

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