WWNウエルネス通信 (2023年6月18日):「目的への抵抗」

掲題の書(國分功一郎著、新潮新書)を読んだ。

要約すれば、

》人間が自由であるためには目的に縛られないことが重要であり、

》目的に抗するところにこそ人間の自由がある。

ということが主張されている。

と言っても、ピンとこない方がほとんどだと思うので、慌てて補足すると、國分氏はこの例として、2020年から始まったコロナ危機を取り上げている。

ご記憶に残っていると思うのだけれど、2020年春に緊急事態宣言が発出された当時、私たちはその「緊急事態」を受け入れた。そして、パチンコ店やゲームセンターなどの遊興施設や博物館・美術館・図書館などの文化施設、さらにはスポーツクラブや大学・各種学校などが休業するのを当たり前だと思っていた。これはすべて「コロナ感染拡大を防止するため」という「目的」を達成するために社会が要請した「自由の制限」なのだ。

「何を言うか、感染防止のために行動が制限されるのは当たり前のことだ!」

というお叱りが飛んでくるのを覚悟で言うのだが、このような状況は「例外状態」なのであって、

「我々がさしたるためらいもなく権利制限を受け入れていることが問題なのだ」

と、國分氏は指摘する。

そして國分氏は、イタリアのアガンベンという哲学者の論考を引用する。

イタリアは、20年2月に感染拡大防止のために都市封鎖に近い行動制限を行っていた。ところが、イタリアの学術会議(専門家集団)は「集中治療室への収容を必要とするのは患者の4%のみ」というデータを根拠に、「激しい移動制限」を伴う「例外状態」を批判したのだという。「毎年繰り返されるインフルエンザとそれほど違わないとイタリア学術会議が言っているものに対するこの措置の不均衡は火を見るよりも明らかである」とアガンベン氏は主張したのだった。

重要なのは「コロナ対策」という目的が「移動の自由」という人々の権利を奪っているのに、人々はその例外状態を「さしたる疑問を抱かずに受け入れてしまっている」ということ。そのような政府の対応が云々ということなのではなくて、「目的」のためには「自由」が制限されることを厭わないという性向が、私たちの心の中に自然に形成されているということなのだ。

本書を読んで私は、例えば、子どもが勉強するとき、それは「将来の成功」という「目的」を達成するための行為であって、「将来のために今の享楽(ゲームなど)を犠牲にする」という心性は、子どもの時から私たちが馴染できたものなのだということに気づいた。

「健康のために美味しいものを食べることを制限する」とか、「将来のために節約して貯金する」とか、私たちは将来の「目的」のために日々の生活行動を抑制することに慣れ親しんでいる。

もちろん、著者(國分氏)は「目的や目標に向かって行動すること」を否定するわけではない。高校生や大学生が試験に向かって勉強することの大切さや、将来についての関心事を大事にすることも奨励しているし、「生活のなかから目的が消え去ることはない」とも強調している。そのうえで、「あらゆるものが目的合理性に還元されてしまう事態に警戒すること」を提唱しているのだ。

ナチス支配下から亡命したハンナ・アーレントの「人間の条件」という著書から引用された次の言葉は、ユダヤ人迫害だけに適用されることではない。

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目的として定められたある事項を追求するためには、効果的でありさえすれば、すべての手段が許され、正当化される。こういう考え方を追求してゆけば、最後にはどんなに恐るべき結果が生まれるか。

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戦後の日本でも「優生保護法」(1948~1996年)という法律のもとで障害者への強制不妊手術が行われていたことが最近くりかえし報道されているが、ナチスの優生思想は、戦後の日本にも残っていたということ。

「目的」のために「手段」を正当化する。

そしてその「手段」によって自身の行動が制限されたとしても「少しの我慢」と受け入れる従順さ。「ゲームを我慢して勉強する」ことと、「ウイルス蔓延防止のために我慢する」ことと、「障がい者の不妊手術を受け入れる」ということは、被害の甚大さとそれに対する従順さの程度という点で大きな開きがあるし全く異なることだ。でもそれは程度の問題なのだろうか。

「目的のために正当化された手段」に従順に従うことが、おぞましいほどに大きな犠牲の温床になっているかもしれないということを、本書を読んで私は肝に銘じたのだった。

Wasedaウェルネスネットワーク会長・中村好男

http://wasedawellness.com/

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