表題の書(小林武彦著/講談社現代新書/21年4月刊)を読んだ。
帯を見ると、
「死」は進化が作った仕組みである
私達は、次の世代のために死ななければならない―
などと、センセーショナルな文字が並んでいた。
本文の中盤(第3章)には、
「細菌が死ぬ場合は、飢餓か被食、環境の変化などによるアクシデント死です。」
「多くの昆虫は、交尾の後、役割がすんだと言わんばかりにバタバタと死んでいきます。」
と記されていて、各々の生存意義について考えさせられてしまったのだが、結局のところ、
- 生物は、その種に応じて様々な「死に方」をするらしく、
- それは、「進化の(その変化ゆえに種が存続した)結果」であるとともに、
- そのような「多様性」が、「生物」という存在が永らく地球上で生存できる根拠なのだ
ということが分かっていく。
例えば、生後わずか2ヶ月で成熟し、20日間の妊娠期間で4~5匹を出産するペースを繰り返すハツカネズミ」については、「すばしっこく動くことで逃げ回り、食べられる前にできるだけ早く成熟して、たくさん子供をのこすような性質を持ったものが生き残った」ということで、「その引き換えとして、長生きにかかわる遺伝子機能を失っていった」とのこと。
一方で、ハリネズミ(体調20cm、寿命は約10年)、ビーバー(体調1m、寿命は約20年)のように、大型になるほど寿命は伸びて、「食べられる死に方」から「寿命を全うする死に方」に変化するのだという。
ヒトの死に方としては、「私たち人の体内でわざわざ細胞を死なせるプログラムが遺伝子レベルで組み込まれている」とのことで、それがヒトという種の進化の結果らしい。それはどうやら「老化」と呼ばれる「死に至る仕組み」とのこと。
どうやら著者は、生物が進化の結果として「生き方」と同時に「死に方」も獲得してきたのだと考えていることが、読み進むうちにわかってくる。そして、「生き物が死ぬこと」も進化が作った必然なのだと示唆する。
そもそも、46億年前の地球の誕生から、40億年前の生命の誕生。そして、30億年前の細菌(真核生物)への進化から始まって、2 億年前の哺乳類の誕生、5 千万年前の霊長類の誕生を経て、20万年前に誕生した現在人類に至るまで、私たちは多様な進化を経て今を生きている。また、20年前から始まる1万世代(およそ20年に一世代)の世代交代の過程で、「ヒト」自体も少しずつ進化を繰り返してきている。
これは「偶然」の結果なのだけれど、著者は、「生き物が生まれるのは偶然ですが、死ぬのは必然」と言う。「壊れないと次ができません」とまで申し立てるのだ。
私たち一人ひとりは、自分の命を大切にして、その人生の充足を何よりも願っているわけで、だれ一人として、「死ぬのは人としての必然」と言われたら愉快ではないだろう。
でも、私たちが「地球環境問題」を意識するとき、そこでは「生きている自分」と言うよりもむしろ「これから生まれてくる子孫(人類)」への眼差しを持っているはずで、100年後に生き続けている自分を意識している人はいないと思う。
私たちは、「自身(個人)の人生」を大事にする気持ちと、「人類(それどころか地球)の行く末」までをも案じるという心持ちを持って存在している生物種なのだということに気づく。
著者は、
「死は生命の連続性を維持する原動力」
「この世に偶然にして生まれてきた私たちは、その奇跡的な命を次の世代へと繋ぐために死ぬのです」
「私たちは次の世代のために死ななければならない」
とも述べている(第5章)。
この最後の言葉(じつは帯にも出ていた言葉)を、「ヒトは死ななければならない」という意味で解釈すると酷だけれど、必ず死すべき運命にある私たちは「次の世代のための死に方」を選ぶのだと考えると、救われる。
生物史上最も進化した私たちは、次の世代、将来の人類、未来の地球のために「どのように死ぬのか」ということを考えられるまでに進化したのだと考えると、少しワクワクしてきた。
Wasedaウェルネスネットワーク会長・中村好男
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