【15】 「公衆衛生」への誤解

今般のコロナ禍で最も重視されたのが「公衆衛生」。英語ではpublic healthと表記される。これは、WHOの核心的使命だし、厚生労働省に代表される日本の各種施策においても、最重要に目標とされる考え方である。

ところで、この「公衆衛生public health」が「個人の健康personal health」と同一ではないということは、意外と知られていないようだ。この相反は、「健康」だけに限ったことではなく、広く「幸福」全般に当てはまることで、一般的に法律によって「個人の権利」が規制される際の理論的根拠となっている。

どういうことかというと、「赤信号で止まる」のは「交通の混乱」を避けるために社会が定めたルールなのだが、一人ひとりの個人にとっては「自由に進みたい」という欲求を抑圧して「迷惑をかけないように自制する」という行為なのであって、そのような「個人の自制」によって「社会の交通秩序」が守られることになる。

もちろん、これは当たり前のことなのだけれど、時として、全く車が近づいてくる気配のない横断歩道の信号が赤だった時に、「渡りたい」という衝動を禁じ得ない方も少なくないのではないかと思う。このように、「社会の秩序」は、必ずしも「一人ひとりの自由と幸福」とは一致してはおらず、「個人の自由」を抑制することによって成立することが多い。

日本国憲法13条では、「公共の福祉」という言葉によって「社会の秩序」が定義されていて、「公共の福祉に反しない限り」という条件付きで「個人として尊重され」、「生命、自由及び幸福追求に対する国民の権利」が尊重されるということになっている。

「公衆衛生」という用語は、憲法25条に現れていて、「すべて国民は、健康で文化的な最低限度の生活を営む権利を有する。国は、すべての生活部面について、社会福祉、社会保障及び公衆衛生の向上及び増進に努めなければならない」と記されている。それゆえ、国は国民一人一人(すべて)の健康・生活の権利を保障する責務を持っていて、そのために「公衆衛生の向上及び増進」が図られるのだと思っている方も多いことだろう。

でも、じつのところは、「公衆衛生の向上」において目指されていることは「個人の(一人ひとりの)健康」もさることながら、「公共の福祉」の観点の方が大きい。例えば、「受動喫煙防止」という公共の福祉のために「喫煙者の権利が抑制されること」は「公衆衛生」の成果と言える。

今般、もっともわかりやすいのは、「マスクと自粛」だろう。「感染者数の増加」は、社会にとっての恐怖であり、政府としては抑制すべき目標なのだから、「マスク生活」とか「自粛生活」という犠牲を甘んじて受けなければならないのも「公衆衛生」の成果なのである。

私としては、「自分が感染して苦しむこと」が避けられればそれでよいと思っている。たとえ感染しても無症状でいられるように、普段から生活習慣を整えて免疫機能を正常に保持することがなによりも大切な予防行為なのに、運動や身体活動の機会が奪われる「マスク&自粛」を受け入れなければならないのは不本意だ。でも、それが「公共の福祉」なのだからわがままを言ってはいけないのだ。

じつは、「感染者数抑制」という公衆衛生上の錦の御旗の下に、個人の健康づくりにとても大切な「フィットネスの自由」が抑制されているというのが、今般の「公衆衛生の向上及び増進」施策の一面なのだ。

もし「感染者数の増加抑制」だけでなく、「感染しても発症しない安心な状態」を目指してくれていたら、「フィットネス参加者数の増加」が目標値の一つになるかもしれないというのに。とても残念なことだ。

せめて、「健康で文化的な生活を享受している人の数」を「公衆衛生」の目標に挙げてもらえると嬉しいのだけれど、これもまた私ひとりのわがままなのだろうなぁ。

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