前々回、《健康づくり》を促進(プロモーション)するためのメッセージにおける「鉄板原則」について述べた。
それは、以下の3要素からなる3段論法のこと。
- 不安をあおる
- その原因を解説する
- その対応策を提示する
この1)の「不安をあおる」という言葉は、それ自身が扇動的で不適切な印象を与えたかもしれない。もっと冷静に記載するならば、「問題を提示する」とでも言えるだろうか。その際に提示する「問題」自体が「困った状況」を示唆するので、それを受け止める人々は「不安」を感じるということなのだ。でも、その「不安」こそが「問題解決の動機(原動力)」になるので、私たちがなんらかの健康情報を宣伝する場合には、その「不安」を醸し出すことが標準的な手段として利用されているということ。
ただし、その「不安の醸成」の程度は、言葉の選び方や使い方によってコントロールが可能であり、「扇動」も可能だけれど「単にほのめかすだけ」という程度にとどめることもできる。もちろん、「不安」を全く感じさせずに「気持の良さ」だけを前面に押し出して「もっと気持ち良くなりたい」という気分に誘うこともできる。それをどのようにコントロールするのかということは、「不快にさせずにその気になってもらう」という《塩梅》の帰結である。
この「不安の醸成」は、なにも健康情報の宣伝の時だけに使われる手法なのではない。例えば、「早く起きないと学校に遅刻するよ」とか「勉強しないと偉くなれない」などと子どもを激励する際の「遅刻」とか「偉くなれない」という言葉は、将来のネガティブな状態を誇張する。こと子どもに対するメッセージに限れば、「早起きできて偉いね」というように「ポジティブ」な働きかけの方が好ましいと考えられているが、大人に対しては、ある程度の「問題提起」=「不安の醸成」も許されるようだ。
でもここで大切なのは、そのメッセージによって一時的には不安が醸成されたとしても、それに続く「原因解説」あるいは「対応策」によって人々に「安心」をもたらすということ。たとえそれが「不安」を醸し出したとしても、その帰結として提示された「対応策」に興味を示す(やってみようと思う)というのが、これら「健康プロモーションメッセージ」の特徴なのだ。つまり、これらの「不安」は、最終的には「安心」を提供するために必要な手段だということ。
ところが、昨今のコロナに関する「健康メッセージ」は、「不安」を扇動するだけで、肝心の「原因解説」や「対応策の提示」が不十分だから、人々は一向に安心できないのだ。
前回述べたように、今月初めに、一部地域に「まん延防止等重点措置」が適用されたが、その対策は「外出自粛(そのための飲食店の営業制限)」あるいは「国民の我慢」が要請されるだけで、それによってどのような「安心」が得られるのかが見えてこない。それどころか、「人手があふれる繁華街」とか「若者の気の緩み」などと、あたかも「自粛要請を守らない国民」が悪者であるかのような風潮を醸成して、「罰則」だの「課徴金」だのと脅迫的なメッセージを付加するのだから、なおさら始末が悪い。
私は、公衆衛生ならびに健康づくりの専門家として、なによりも心掛けているのが「安心・安全の提供」だ。私たち専門家は(そして政治家も)、なによりも人々に安心して生活する(暮らせる)環境をもたらすことに責任を負っているはずなのだ。
「緊急事態」というのであれば、それが「緊急(一時的)に施される処置」だけに留めてほしいし、国民を不安に陥れるだけのメッセージをこれ以上氾濫させるのは、(少なくとも為政者には)やめてほしいと切に願うところである。
Wasedaウェルネスネットワーク会長・中村好男