さて、鬼怒川橋を渡って左に曲がった後は、氏家に向かってひたすら北上する。
鬼怒川橋の東詰に市境があったので、橋から先は高根沢町。宝積寺駅がある場所は、かつての宝積寺村(現在の高根沢町大字宝積寺)の東北端で、その呼称の由来となる寺院があったという言い伝えはあるようだが、その存在は確認されていないようだ。
ただ、私にとっての「宝積寺」の重要性は、今回の第5ステージを宝積寺駅で終わるか、それとも氏家駅まで歩を伸ばすかというところに尽きる。
奥州街道(国道4号)を北上しながら見えてきた「宝積寺駅→」の看板を目にして、覚悟を判断する。
じつは、鬼怒川橋を渡った直後から足裏に違和感を覚えていたからであった。
左手の岡村建設生コン工場(19.0km地点)を超えたあたりから、左足裏の違和感が「マメ」であると確信してはいたのだけれど、それはまだ「膨らむ」ほどには至っておらず、氏家まで歩くことは可能だろうとも感じていたからだ。とはいえ、7月末の第3ステージの後のように、処置を誤って(歩けなくなるような)大事に至っては大変。10月には授業もあるしウォークもゴルフも控えているので、歩けなくなったといって休むわけにはいかないからだ。
というところで目に入ってきたのが「宝積寺駅→」の看板だったというわけ。
ここから氏家駅までは6km。第3ステージで、間々田駅(22km)から小山駅(30km)までの8kmでマメが発生して大きく膨らんだことを思い起こしていた。あの時の足裏の感覚、あの時の脚と腰の疲労感、歩きながら感じた焦りや高揚などなどを、思い出しては比べていたのだった。
いよいよ看板が近づく。
が、じつはここで宝積寺駅に向かうためには、ただ単に途中で断念するということに加えたハードルがあった。それは、第一に今回の行程を宝積寺で終わったとしたら、次の那須塩原までの行程が36kmと長くなること。二つ目に、宝積寺駅に向かうとしたら、鬼怒川橋を渡ってすぐに右の路地に入って宝積寺通りを進むべきだったのに、国道をここまで進んでから宝積寺駅に向かうのは、大きな遠回りとなってしまうこと。さらには(どうでも良いこととはいえ)そこまでは国道の左側歩道を歩いてきたので、宝積寺駅に向かうには、30m幅の国道を渡らなければならないことである。
そんなこんなの思考が駆け巡った暁に、いよいよその交差点に差し掛かった時には、何も考えずにペースを落とさず直進していた。ゆっくりペースとはいえ、淡々と進めている歩行ペースを乱すことが、なによりも心を乱すことにつながるような気がして、何も考えずに歩き続けたとでもいうのだろうか。しかも、左側歩道は交差点で遮断されずに歩道が続いていたこともあって、「その瞬間」は、宝積寺駅を意識しないままに歩き続けていたのだった。
さあ、もう予定通りに氏家まで進むしかない。
そう思いを決めた後は、簡単だった。ただ、ひたすらゆっくりと、足裏に負担をかけないように歩くだけ。第4ステージの雀宮の直前で意識したような「ペースアップ」も厳禁。そこからは、ただ淡々と、足裏の感覚に気遣いながら歩いていたのだった。
すると、今度は右足裏にも違和感。もちろん、それも軽い違和に過ぎず、マメになるかどうかも分からない程度。と、そこで感じたのは、マメの位置がこれまでとは少し違うこと。直接に見て確かめたわけではないので、その時点では想像に過ぎなかったのだけれど、左足裏のマメの位置が、それまでは第3指の付け根だったのに、幾分か母指球の方に寄っているように感じた。もしかしたら、後ろ足が離地する際に、第3指で蹴り出すのではなく小指球から母指球に向けてローリングする歩き方が定着して、圧迫される位置が変わったのかもしれない。つまり「歩き方が変わった」ということ?
こんなことを考えながらも、景色を堪能して、無事に氏家駅に到着。エレベーター下まで到達したのが15時8分。エレベーターを登って跨線橋を渡り、さらに反対出口側のエレベーターを降りたのちに階段を3段登って、ようやく氏家駅の改札に到着したのが15時11分のことだった。
雀宮駅を出てから6時間。那須歩きの第5ステージが終わった。
(続)
Wasedaウェルネスネットワーク会長・中村好男