先日のゼミで「現象学」が話題になった。
合気道の技の習得過程で投げかけられる様々な指導技法について、「分かる人にはわかる(習得できる)が、わからない人には伝わらない」と問題提起した学生がいて、それを解決する指導法を見出そうとする過程で、「運動指導における現象学的観点の必要性」という題目の論文を紹介したことが発端であった。
「現象学」とは100年以上前にフッサールという思想家が提案した考え方(現象の観方)の体系で、
》物事が「どのように見えるか」という、
》「現象」そのものをありのままに記述し、
》その意味の成り立ちを明らかにする哲学
(Google AI概要)
とも言われている。
といっても、上記だけではよくわからないような気もするが、ものの本によると、
》あらゆる認識は主観で生じる
》世界の存在のすべては、自分の意識に生じている表彰である
という前提で世の中の現象を読み解く考え方のようだ。
私も読みかじっているだけで本当のところは何も理解していないのだが、「あらゆる認識は主観で生じる」という現象学のテーゼを踏まえて私の理解を簡単(短絡的)に述べるとしたら、
》「見えている」ことは「自身の認識」に過ぎず、
》「感じている」ことは「自身の体験」に過ぎない。
》我々は、見えたり感じたりしている認識を「事実」だと思い込む場合もあるが、
》「見えて」いたり「感じて」いることは人それぞれであって、
》そこに同じ「事実」や「真実」や「存在」があるわけではない。
という「一つの考え方」をフッサールが提起したということなのではないかと思っている。(私の勝手な解釈なので、認識が違っていたらご容赦を…)
さて、「分かる人にはわかる(習得できる)が、わからない人には伝わらない」というゼミ学生の問題提起が、どうして「現象学的観点」と関係するのか。
上述の、同じ「事実」や「真実」や「存在」があるわけではないという「現象学」の前提を踏まえれば、自分の体験に基づく認識を(別の体験と認識を有している他者に)言葉で表現して伝えようとすること自体が無謀だとすぐにわかる。それでも「言葉」で話せば伝わると思い込んでいる指導者が多いのだろう。
そういえば、私はかつて、「勝手に気づいてもらう」という技法を紹介した折に、次のように述べていたことを思い出した。
》スポーツ指導の現場でも、「なんでわからないのだ」とか
》「なんでできないのだ」という嘆きの言葉を耳にすることが
》良くあるけれど、そのような嘆きの言葉を発する指導者は、
》大前提として「話せばわかる」という思い込みをしていることが多い。
》でも、「言葉が通じない」という場面は意外に多いということを、
》私は以前から感じていたところであった。
(https://yoshionakamura.jp/2021/11/14/wwn-177/)
》私たちは「言葉」でしか働きかけをできないのだけれど、最終的に
》会得された本人の「感覚」あるいは「気づき」は文字通りのものではないし、
》目標とする状態を達成するための働きかけとしては、
》それを文字通りに話すことが重要なのではない
ということも、述べられていた。
思えば、100年以上も前にフッサールが提起した「現象学」は、20世紀の様々な思想家に影響を与えて、世間に広まり浸透していったはずなのだ。私が生きてきた20世紀後半以降の世界では、そのような前提で物事(現象)に対峙することが当たり前になっていたのに、なんでまた100年前の「現象学」をうやうやしく承るのだろうか。
そういえば、わたしが配信するメールも、「科学的な事実を言葉で伝えようとしている」営為に過ぎない。
どうりで私の研究成果は世間に伝わらないはずだと、あらためて納得したのであった。
Wasedaウェルネスネットワーク会長・中村好男