WWNウエルネス通信 (2025年10月9日):「身体を調える」ということ

今回は、「からだをととのえる」ということについて考えてみた。

まず、「からだ」という語にあてはまる漢字としては、「体」と「身体」の二つがあって、GoogleのAI概要によると、

 》「体」が肉体そのものを指すのに対し、

 》「身体」は肉体に加えて心や精神といった心身全体を表すニュアンスを持つ

とされている。

一方、「ととのえる」という言葉には「調える」と「整える」という二つの漢字表記があって、『角川漢和中辞典』(角川書店刊)によると、

 》調……和合の意の語源(合)からきていて,口をきいて和合させる意,

 》整……そろえる意の語源(斉)からきている。きちんと整列させる意。

とある。

からだに関していえば、「調える」と「整える」は、「調和」と「整形」の違いと言えるだろうし、頭に「不」の文字を付して「不調」と「不整」という言葉の意味を思い浮かべるとわかりやすくなるかもしれない。

まず、「調」という漢字を当てはめて「からだを調える」という場合には文字通りに「体調」を良くすることを意味するし、「整」という漢字で「からだを整える」と表記すると「姿勢や関節アライメント」を正すことを意味することになる。

さて、私の個人的な大雑把な言い方で恐縮であるが、「からだ」に「体」の字を当てはめて「体をととのえる」というときには、「整」と「調」のどちらでも馴染むけれども、「身体をととのえる」というときには「調」の方が馴染みが良いような気がする。「身体を整える」と書いても良いけれど、その場合は「形をそろえる」という意味合いが強くなって、せっかく「身体」という漢字を使っているのに、「肉体」の「形」を整えることに限定されてしまうような気がするのである。

さて、本題はここから。

私たちが「痛み」を感じるとき、その痛みを感じる「からだ」にはどちらの漢字があてはまるのだろうか。肉体という意味で「体」を当てはめるとすると、「痛み」は物理的実体としてイメージされることになる。生理学的には「痛み」の感覚は感覚受容器と神経の所作として記述されるので、そのようなイメージが起こっても不思議ではない。しかし、一方で、「痛み」を感覚的・心理的な表象とみなすならば、単なる肉体としての「体」よりも、心理的・精神的な存在としての「身体」を当てはめた方が良い。

例えば、膝が痛くて整形外科を受診したとする。レントゲンを撮っても特段の異常が認められなかったとき、「異常はありません」と診断されて、「痛み」は「気のせい」と判定されるかもしれない。「痛い」と感覚する「身体」があることは事実なのに、その「身体の痛み」が整形外科的には評価されないこともあるのだ。

「変形性膝関節症」という診断は、あくまでも「変形」という現象を根拠とするもので、「変形」がなければ、それを整えると意味での「整形」もないということなのか?

私たちの身の回りには、整形外科的に評価されない痛みがたくさんある。

というか、私たちが被る痛みのほとんどは、そのような「感覚的・心理的な痛み」であるといっても過言ではない。もし、「整形」や「整体」というアプローチだけではそれらの痛みに対処できないのだとしたら、それは「体を整える」という方法論の限界なのだと言える。

私としては、「身体を調える」という漢字表記が、もっともっと一般的に広まっていけばよいのに、と思うのである。

Wasedaウェルネスネットワーク会長・中村好男http://wasedawellness.com/

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