さて、日陰を避けるすべを持たずに新幹線高架下側道をひたすら直進していた私は、それでもけなげに景色を見ながらいろいろと考えを巡らせた。
最初に眼にしたのは前回記した小学校だったが、その先の右手に「白岡市消防団第5分断」と掲げられた倉庫。高架下橋脚の間のスペースに、そのプレハブ小屋が建っていた。その向かい側は民家にしか見えないのだけれど、グーグルで確認すると、その民家の土地が「第5分団」として表されていた。ともあれ、JRは、この高架下スペースを「白岡市消防団」の倉庫として供出(あるいは賃貸)しているようだった。50mほど進むと、シャッターの締まった倉庫。右下の銘板には「白岡市教育委員会」の下に「篠津天王様の山車 神山耕地」の文字。どうやら、お祭りの山車の倉庫としても高架下スペースが供用されているようだ。もしかしたら、国鉄時代に新幹線用地を買収する際に、白岡市との間で「高架下スペースを公共目的で供用する」という約束がなされたのではないかとも勘ぐってみた。
ところが、その先しばらくは左側に民家が点在していたが、最初の細い川を渡った先には、もはや田畑しか見えない。気がついたら、左側にならぶ電柱の間隔を歩測していた。
「40mくらいかな?」
と、あたりをつけて歩測すると「58歩」だったりして、見た目の印象が随分と過小評価していることに気づく。
……この段階で、自身の意識の異常さに気づくべきだったのだが、このときはただただ自身を奮い立たせることしか考えていなかった。
圏央道(大宮から17.5km地点)を越えて、久喜駅まで2kmほどになると、道路の左側に民家がちらほら。と、思いきや、突如足がもつれる。もちろん意識ははっきりしているので、すぐに足取りを整えることはできたのだけれど、「休みたい」と思う気持ちが湧いたことに驚いた。気づけば、脈拍が結構高い。左の建物の陰にある道路標識に手をついて少し佇む。
……
10秒ほど休んだだろうか。
「休んでいたら進まない」
という百キロハイクの際の(自分で作った)フレーズを思い浮かべながら先に進む。
でも、50mほど進むと、また休みたくなる。もはや、「次の電柱まで何歩?」と数えることもできないほどに疲弊して、ようやくに「熱中症だな?」と気づく。右手の掌と指に、少し痺れも感じた。
何度か、高架下の柵に手をついて立ち止まることを繰り返しているうちに、吐き気を催した。とはいっても、実際に嘔吐するわけではなく、脈拍の高まりと呼吸困難を感じ始めて、「行き倒れ」の危機に直面したのだった。
もはや限界だった。ちょうど、高架下に入り込む(反対側の畑への)進入路があったので、その日陰を使用して道端にしゃがんだ。地面にお尻をつけると立ち上がれなくなるような気がしたので、かかとの上にお尻を載せる蹲踞(そんきょ)姿勢で休む。そのまま休みながら、残っていたレモングラスティを飲み干す。5分ほど休んだところで、立ち上がる。呼吸も脈拍も落ち着いていたので、再び歩き始めた。
しばらく行くと、高架の右側にも道が見える。ちょうど駐車場と公園があって、数十mほどではあったが、右側の日陰を歩くことができた。
また、左側の日照り道に戻ったころには、そのまま歩ける予感が。14:10にようやく久喜駅西口に到着。改札口に向かうエスカレーターに乗ったときには、本当に安堵した。
東西を結ぶ2階の自由通路には座るところはなかったので、改札口向かいのコーヒーショップに入る。冷房の効いた店内で席に就くと、注文したレモネードと冷水を飲み続けて休む。30分すぎたころから身体が冷えてきたのを感じる。そこからさらに10分以上休んで、14:56に久喜駅東口を出て、3km先の東鷲宮駅でその日のウォークを終えた。
「行き倒れになるかも」
と危機を感じるほどの熱中症になったのは初めての体験。
運動生理学を研究していたころには口先だけしか関われなかった「熱中症」を自身の身体で体験できたことは、今回の「那須行ウォークpart2」の最大の成果だったと言えるだろう。
(この項終わり)
Wasedaウェルネスネットワーク会長・中村好男