WWNウエルネス通信 (2025年6月30日):「那須まで歩く(5)関東平野は海だった」

荒川から先の平らな道を歩きながら、「荒川の北側にはどうして残された崖や丘陵がないのか?」という疑問は、

「関東平野はどうして平らなのか?」

という謎に結実していった。

そこで、大宮までの行程を歩き終わってからいろいろと調べてみると、その謎が解けた。

というほど大げさなことではないのだけれど、そもそも荒川から利根川まで広がる平野は、かつては海の底に大きく窪んだ土地だったということ。そこに(荒川や利根川などの)上流から流れ込む土砂や、富士山や浅間山から噴出される火山灰などが入り込み、それらは、海の中では平らに沈降して堆積する。2万年前に(寒冷化のために)海水が低下して現在のような陸地となった際には河川に削られて各々に谷が刻まれたものの、6000年前(縄文前期)に海水が上昇して、内湾や入り江の底にはまたまた泥が堆積して(平らな)干潟や湿地になった。その海面が現在に至るまでに数m低下して、荒川流域から利根川流域までがほぼほぼ平らな陸地になったのだとのこと。

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大雑把に言えば、今回の目的地であった大宮から北側の「大宮台地」は、関東平野が海だった時代に荒川河口の東側の陸地の最南端だったらしい。そして、大宮から北に向かうJR宇都宮線は、利根川を渡って古河に至るまでは、縄文前期に海が広がっていた時代の海岸沿い(入り江と陸地が交錯するエリア)を進んでいるらしいということも判明した。

だから、川口から越谷~岩槻~春日部エリアをを経由して古河に至る道のりが、縄文前期の「海中ルート」だとしたら、大宮から蓮田~久喜を経由するJR宇都宮線ルートは、「海沿いルート」とも言えるかもしれない。現在の東海道が江戸時代の「海沿いルート」だったことを思い起こすと、縄文時代に江戸幕府が開かれていたとしたら、この海沿いルートは、日光まで続く「北海道」ということになるのだろうか?

次に目指すのは、大宮から古河までの「海沿いルート(北海道)」ということになる。

(この項終わり)

Wasedaウェルネスネットワーク会長・中村好男

http://wasedawellness.com/

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