先日のウォークでのこと。
一緒に歩いていた参加者から、「先生はどうして大学教授になったのですか?」と質問された。
そのようなことは、これまで全く考えたこともなかったので、面食らったのだけれど、ここでの「どうして」は、「なぜ」や「どのようにして」という問いではなくて、「なぜ教授になりたいと思ったのか」という、いわば「志望動機」の様な意味なのだろうと勝手に感じた。
高校時代に私が思い描いていた進路は「大学入学」までで、東大では入学後に専門(進学学部学科)を決めるので、「工学部・機械工学科」という進路を思い描いたのは1年生の冬だった。そこから「体育学科~大学院」に至る成行は以前に記したが、
結局のところ、「大学教員」の職に出会えたから大学教授になったとしか言いようがないのだ。
つまるところ、私には大学教授になろうとする「志望動機」はなかったと言っても過言ではない。もちろん、「研究が面白い/したい」というような動機はあるにせよ、そんなものは後付で、大学に勤めていなければとっくに忘れてしまっただろうことは間違いない。
思い起こせば私には、大学以外のいわゆる民間企業に就職するチャンス(可能性)は3度あった。
最初はもちろん大学卒業時。もし私が工学部(機械工学科)に進学していたとしたら、如何に成績不良の学生であったとしても、習わしとして、きっと私もどこかの企業に就職したのだろうと思う。実際、馬術部の先輩は「住友商事に来い」と言ってくれていたし、私に機械工学科を勧めてくれた先輩は富士通に就職して役員にまでなっていた。
でも、大学院への進学を目指して留年した2回目の4年の春には就職情報誌も届かなかったし、たった5名しかいない「体育学科」の同期と交わっていても「就職」という言葉は生まれてこなかったのだ。大学院に進学することが当たり前で、修士課程を出たらどこかの大学の先生になるのかもしれないと考えるのが(実際に大学助手になるのは半分以下だったとしても)、最も起こりやすい進路だった。
そんな私が民間企業を意識した2回目は、修士課程を終わる時。修士論文を提出して博士課程の受験を控えたころ、教授が突然に「博士課程に行けるのは3名だけ」と宣言した。私は6名の同期の筆頭という自負はあったのだけれど、もし進学できなければ民間企業に就職しようと覚悟を決めたのだった。ちょうど、ゼネコンに勤務していた私の親友が三井不動産と仕事をしていて、「とてもいい会社だから中村に勧めたい」と漏らしたのが縁だった。でも、博士課程への進学が決まって、その可能性は霧消した。
3度目は、早稲田大学の助手の任期が切れるとき。29歳で助手の職を得て早稲田大学に奉職したのだけれど、「任期が3年」という身分だったので、その後の就職先はいつも気に掛けていた。大学教員の職(公募)にもいくつか応募したけれど、どこにも採用されなかったので、3年目の春には「もし職がなかったら」という可能性を想定して、コンピュータ関係の雑誌をめくりながら「SEにでもなろうかな」と思い描くに至った。興味を持ったのは富士通とオラクルだった。
そんな民間企業への可能性も、11月ごろに日本学術振興会・特別研究員に採択されたことで、葬り去られた。もちろん、その研究員の職も「2年任期」なのだけれど、その期間中にとある大学からオファーを受けて、(結局そこには行かなかったけれど)最終的に早稲田大学の講師(70歳定年)の職についたことで、「大学教授への道」が固まった。
結局のところ、私は自分が大学教授に至る過程で、確たる志望動機を持っていたわけではなかったということが、今回の発見だった。
そういえば、私は3年後に定年退職することになっているのだけれど、定年後の進路について明確に思い描いたり「志望」することはないと確信できる。おそらく、これまでと同様に、そこで出会った仕事に邁進するだけなのかなと感じている。
目的や目標を定めない生き方があっても良いと思うのだ。
Wasedaウェルネスネットワーク会長・中村好男