先日、学部ゼミが始まる直前に学生から相談を受けた。
なんでも、「祖母が昨年末に股関節(おそらく大腿骨頸部)を骨折、人工関節に置換して、今はリハビリ入院中」とのこと。ただ、あまり熱心ではないようで、「リハビリのやる気が起こらないのよね」と言われたという。
「やる気を起こしてもらえるような(声かけなどの)働きかけ方はありますか?」
と相談されたのだった。
突然のことだったので、当人のことをいくつか質問した。
曰く、
・娘家族(学生自身)の近所に一人で暮らしている
・認知症の疑いと診断された
・かつては体操などにも熱心でよく出歩いていたが最近は閉じこもり気味
そこで、
「いつごろから出歩かなくなったの?」
と尋ねたところ、
「コロナの頃から」
とのこと。
もしかしたら、お母さん(祖母の娘)が「出歩かないように」と言っていたのではないかと尋ねると、
「そうです」
という。
そのような高齢者がコロナ禍でたくさん生まれたことを解説するとともに、
「きっと、おばあちゃんは認知症ではないと思うよ」
と告げた。
MMSEのスコアを基準にすると「認知症の疑い」という判定になるのだろうけれど、当人は、(コロナ禍のステイホームも含めて)これまで歩んできた人生の中で起こったことへの正常な反応・適応として「成長している」のだと思えば、MMSEスコアでは計り知れない奥深い人生への一歩を進み始めただけなのだと考えることもできる。
これは私の持論なのだけれど、「認知症」は本人の苦しみというよりも周りの家族や社会にとっての問題がほとんどで、「社会が認定する病」の代表格。じつのところは、その当人は、社会が定める様々な取り決めや常識にとらわれない《世界》に「成長」しているだけのことで、現社会に住む我々が、その社会の常識的な規範の範疇に「戻したい」と思う(我々側の)葛藤の帰結として、「病気である」=「社会的役割が果たせない」と認定する営為なのである。
「おばあちゃんは、少しだけあっちの世界に首を突っ込んでいるかもしれないけど、無理やり戻そうとしないことが肝心だよ」
と、伝えてあげた。
彼女も私のゼミの学生だし、それを教える私の講義も履修済だったので、余計なお世話(言葉)とも思ったけれど、せっかく「やる気を起こすような働きかけ」を教示してほしいとの相談だったので、蛇足ながら、
「こちらから(何かを依頼するような)言葉をかけるのではなく、おばあちゃんが何かをやっているときに、『それはなぁに(面白そうだね)』と尋ねて、おばあちゃんから話を聞けるようになるといいね」
とも、アドバイスしてあげた。
あちらの世界に進もうとしているお年寄りから「あちらの世界の話」を聞いて、(こちらの社会にいる)私たちが学ぶことができるようになったら、人類はもっと進化するのではないかと、私は密かに考えているのである。
Wasedaウェルネスネットワーク会長・中村好男