先日のウォークでのこと。
参加者との会話の中で大学での仕事について尋ねられて、
「授業の準備とか、大変なんでしょうね?」
と質問された。
1秒ほどの沈黙の後に
「授業の準備はとくにしていません」と、回答した。
もちろん、なんの「準備」もなく講義を行うことはない。でも改めて「準備」と問われても、いったい何を「準備」していたのかと、即座に回答できなかったのだ。
私の担当する授業には、講義とゼミの2種類がある。
私が単独で担当する講義については、今はすべてオンデマンド型(事前に収録した講義動画を学生が視聴して課題を提出する形式)なので、講義動画を収録したり課題を設定することが「準備」に相当するのかもしれない。ただ、毎回の講義視聴後に提出される課題を評定してフィードバックする作業の方にたくさんの時間(おそらく毎週5~8時間ほど)を要するので、「準備」というよりは「後処理」という感じ。
ゼミに至っては、学生が取り組んで発表した内容について、適宜コメントするのが仕事なので、その場での即興がすべてと言える。
もちろん、毎回の講義やゼミに臨むにあたって、まったく心の準備をしないということはないのだけれど、「各々の学生の学習進捗状況に合わせて、やり取りをしながら学生の理解を進めていく」ということなのだろうと思う。
私が語りたい(語るべき)ことがらがあって、それを一方的に講演するという形式の授業は、そういえばいつからなくなったのだろうか。
思い起こせば、早稲田大学で専任講師として勤め始めた30年ほど前(1992年)には、「運動と健康」という講義を担当していて、講義ノートを作って、それに従って(板書しながら)話を進めていた。専門科目の「スポーツ生理学」では、用意した教科書に沿って話を進めて、毎回の講義内容を踏まえて毎週小テストを行ったりしていた。こういう場合の講義ノートや小テストなどは「準備」に相当するのだろうと、いまさらながら思い出した。
でも、今ではそのような形式の授業(講義)はない。たぶん、「教える」というよりも「気づいてもらう」という態度で授業を進めるようになったのは、かれこれ20年前くらいのことだったような気がする。
そういえば、10年ほど前のこと。とある駅前の看板に「教えない!武田塾」と掲げられていたのを見たときに、「最近は学習塾も教えてないんだ(私はずっと以前からやっているけど)」と感心したことを覚えている。
もちろん、教えるときには教えているし、というか、ゼミの学生発表に対してコメントする場合には「教える」ことも多いのだけれど、「如何に(教えずに)気づかせるか」が教授の仕事の肝なのだと、ひそかに思っている。
Wasedaウェルネスネットワーク会長・中村好男