私の授業では、毎回の講義内容に対して「今回の授業で学んだことを3点述べよ」という課題を必須としている。それを毎週の締め切り後に私がチェックして、学生の受講内容(何をどのように理解したのか)を確認することになる。
今期は大学院(社会人コース)の講義が配信されていて、今週は「健康の社会学」。
「生活習慣病」を中心とした、この30年間の日本の健康政策とその効果について解説するとともに、社会的健康(公衆衛生)と個人的健康とが異なる概念だということと、個人の健康(病気)に関しても「社会基準」と「個人基準」とが乖離しているということを理解してもらうことがその柱であった。
ひらたくいうと、例えばコロナの感染者数を抑制する施策は「社会(公衆衛生)」における達成目標であって、ひとり一人にとっては「自分がコロナに感染しないこと」だけが重要なのだし、たとえコロナに感染したとしても、そこで認定されるのはあくまでも「感染の有無」という「社会基準」なのであって、「症状があるかないか(重いか軽いか)」という「個人基準」とは無関係に「隔離」の措置が取られることになる。つまり、「隔離」という個人の生活を犠牲にする措置が行われたのは、ひとり一人の病気を治すための治療行為ではないということ。「健康」と一言にいっても、そこで目指されるのはひとり一人の幸福(個人基準の健康)なのではないということもあって、公共の福祉としての公衆衛生が目指されることで個人(人生)が蹂躙される場合もあるという現状を理解してもらうことが柱の一つであった。
そのような講義の受講生が「学んだこと」を読むと、興味深い話がいくつかあった。
少々長くなって恐縮だが、以下に数名の回答を紹介したい(文面は少し変えています)。
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*A
私が受診している鍼と漢方の治療院の先生から次のような話を聞いた。
「症状を治そうとすると、来なくなる患者さんっていっぱいいるのよ。多分それは、症状が完全に治ってしまうと、これまで病気を盾に逃げていたことができなくなる。そうなると (それを)言い逃れができない環境に置かれる怖さを感じているから、直すのを止めるんだと思う」と。
この話を最初に聞いた当時、「何故病気を治すことから逃れたいのだろうか?」とその思考が理解できなかったが、講義を受けて、「孤独としての病気」の位置に留まろうとする人であると言語化でき、確信した。更にもう一歩踏み込むと、病気の症状(じつは大した症状ではないことも多い)があることで周囲の人から「可哀そうな人と見られる」ことで自己が守られる感覚もあるようだ。
*B
自分は、人間ドック等で特に異常が見られなくとも、「オプションをつけていなかったから見つけられていないものがあるのではないか」といった疑心暗鬼にかられることがある。一方、何かしら日常生活で不安な要素(自覚症状)を抱えて検診を受けた場合、結果が良好であれば安心するとともに、不調の原因が特定できないことで安心できない精神状態になってしまう。そこで病気が特定されれば、むしろ原因が判明したことで安心できることがある。
*C(医療従事者)
患者様で病名が「ついて安心した」とか「会社に診断書が出せる」等言葉を聴くことがある。病名がついても病院では症状が改善されないことは結構あるが、病院に行き状態を確認する人が多い。講義と仕事を振り返ってみて思うのは、人間とは安心したい生き物であることが理解できた。実際、私自身の不調の時、病名がつかず困った覚えがある。もし病名がついたとしても、症状が改善されなければ安心できない。人はどのような状況でも安心を求め続けるのかもしれない。
*D
「安心としての病気」というフレーズに腑に落ちた感覚がありました。私も過去、学生の時にシンスプリントのような痛みに悩まされ、動きにくい日々が続いた時に何人ものお医者さんに診療していただきました。MRIを取ったり、インソールを作ったりもしましたが、特に病名はなく、「この痛みは何なんだろう」ともやもやする日々でした。成長するにつれ、その痛みはなくなっていったのですが、不調を抱える人の中には、「病気と診断されることで苦痛から解放されたい」、「社会的な責任や義務から解放されたい」と考える人も多いのではないかと思います。言い方を変えれば「病気のせいだ」と思うことによって、「異常なのは自分自身ではなくこの『病気』がくっついているからだ」と安心するからかもしれません。
*E
人はなぜ人と比べるのか。全て比べるところから何か基準を作り合わせよう、勝とうとする意識から病気が始まるのではと感じている。
*F
私はスポーツをしているが練習がきつくなって逃げたいと感じた時、「いっそのこと怪我をしたら休めるのに」と何度も考えた。スポーツをできる身体じゃないと診断をもらうことで、社会的に休むことを許してもらおうとした経験があった。
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以前、本通信で、私が担当する講義の受講学生の提出課題から学んだことを記した。
今回は「病気を求める心」の話。
いつものことながら、学生から学ぶことは意外に多い。
Wasedaウェルネスネットワーク会長・中村好男