WWNウエルネス通信 (2024年4月23日):「他者と生きる~(5)共生社会への眼差し」

(前報は → https://yoshionakamura.jp/2024/04/22/wwn-116/

さてそのようにして磯野は、個人主義的人間観と統計学的人間観に対比させる形で関係論的人間観という考え方を提示した。

これはあくまでも「人間観」なのであって、「人とはそもそもどのような存在か?」という問いを立てたとしたときに想定される答えのうちのいくつかに過ぎないということは言うまでもない。私たちは「独り」で過ごす(生きる)こともできるし、誰かと一緒にいるという関係性の中でしか保てない自我もある。

例えば、100m競走のようなスポーツの競技を思い起こしていただくと、そこでレースに参加する「私」は、一緒に走る他のランナーがいるからこそ走っている「私」の存在を自覚できるし、1番にゴールする「勝者」は、2番以下の他者がいて初めて自分の順位を確定づけることができる。そういう意味では「優勝する私」は「2位以下の他者」との関係性の中でしか存在できないのだけれど、走っている自分は、自分一人の身体で走ることしかできない。だから、金メダルを取る「私」は、勝てなかったすべての競技者との関係性の中で位置づけられるのだけれども、自分独自の身体によって生み出された「個人」であることも確かである。だから、「関係性の中で優勝する私」と「自分の身体を操って優勝する私」は同時に存在する。もちろん、「金メダリスト」あるいは「陸上競技選手」という「平均人」としても同時に存在する。

つまり「私」という存在は、統計学的な「平均人」の中の一人としての「私」としても位置付けられるし、個人主義的な観点からは(磯野の指摘によると他者と接合されているとはいえ)「自分らしさ」をもった「私」としても位置付けられるし、家族や友人知人との関係性の中での「私」としても位置付けられるのだ。だから、個人主義的な人間観は統計学的な平均人を否定するものではないし、関係論的人間観が「自分らしさ」や「平均人」を否定するわけでもない。

ではなぜ、あえて「関係論的人間観」などと提唱しなければならないのかというと、私たちが暮らしているこの社会の制度や法律が、個人主義的人間観に基づいて設計・構築されているために、私たちが関係性の中で生きていることに気づきにくくなっているということ。場合によっては関係性が否定されてしまって、生きることの責任を負わされたり、人間関係の変調による生きづらさが隠されたりしてしまう可能性があるからなのだ。

例えば、30年ほど前までは、「認知症」という症状は「予防」しなければならない病気だと恐れられていたし、「発達障害」という症状は「治癒」されなければならないと信じていた人も多い。「認知症」や「発達障害」が、他者との関係性の中でひどくなったり落ち着いたりするという理解が進むにつれ、それらの症状が必ずしも個人の身体という単位で発現するというよりもむしろ周囲の他者との関係性の中で発現するものであって、他者あるいは社会が受容することで、お互いの生きづらさが軽減されるという事も常識になりつつある。

「障害の社会モデル(障害の誘因となる身体特性としての機能障害を改善するのではなく障害者が生きづらくなる社会環境を変えていくべきとする考え方)」も、「私」という存在が他者と関係を持つことによって初めて生まれ出るという関係論的人間観を前提にするとわかり易くなるし、認知症・発達障害や性的マイノリティにとどまらず、様々に生きづらさを感じてきた人たちの救済となることも期待されるのだ。

本当の共生社会は、関係論的人間観を理解するところから広がるのではないかと感じさせてくれたことが、磯野さんが私にもたらしてくれた福音だった。

Wasedaウェルネスネットワーク会長・中村好男

http://wasedawellness.com/

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