さて、これまでの本ブログでは初めてのことであるが、同一テーマで4回目の連載となった。(これまでの記事は以下)
WWNウエルネス通信 (2024年4月19日):「他者と生きる~(1)平均人という常識」
WWNウエルネス通信 (2024年4月20日):「他者と生きる~(2)平均人=統計的人間観」
WWNウエルネス通信 (2024年4月21日):「他者と生きる~(3)個人主義的人間観」
ここまで長々と、私たちが違和感なく認識する「平均人」のイメージと、そのような「平均」あるいは、社会が定める尺度(例えば収入とか地位とかなど)の上位を目指そうとする志向に対して、「自分らしさ」を大切にしようとする「個人的人間観」について解説してきた。ところが、そもそも「平均人=統計的人間観」であれ「個人的人間観」であれ、一人一人が独立した「個人」として分離することができるという確信に基づいた認識であり、一つの身体の中に一人の個人が宿っていると理解している点では同類だ。このような考え方は19世紀に徐々に浸透して、20世紀にはだれもが当たり前だと感じる認識として定着した。この人間観が自明であるからこそ、マイナンバーという制度やローンの仕組み、あるいはアリバイという考え方が成立するのだという。それゆえ、この個人主義的人間観に立脚する社会においては、「その前提の棄却は社会秩序の崩壊を招くだろう」とまで、磯野は語る。しかし、「この個人主義的人間観は、全人類に共通して共有されてきたわけではなく、…欧米においてもかなりの時間をかけて成立した」と指摘し、「自由にして責任を持った方の統治の対象として二自我を持つ人の概念は、19世紀初頭にようやく成立した」とも述べる。
この世の中には、「個々の暮らしが種々の人間関係に強く拘束される社会」もあるし、「眠っているあいだに遠い村で盗みを働いたという非難を甘んじて受ける」社会もあるとのこと。一人一人の「身体」という概念を持たない社会においては、「身体に拘束される固有の〈自我〉という観念も持っていない」のだという。そして、現代の学説の中には、「人と人との関係性の中で具現化するのが人間である」とする人格論もあるし、「個人はそれ以上分けられない存在なのではなくて、それまでにかかわりを持った人々との集積として存在する分けられる存在(分人)である」とする提言もあるとのこと。「法律や制度の上での個人は想定されているものの、現実の世界においては(一人一人の個人は)世間の中で生きている」と見立てる考え方もあるという。「人間」とか「世間」という日本語は、そのような人間観の名残りとも言えるのだろうか。
このような「多様な人のありかた」を踏まえて、磯野はそれらを「関係論的人間観」という言葉で集約するのである。もちろんそれはあくまでも「人間観」=「人間についての見方の一つ」なのであって「個人主義的人間観」を否定するものではないが、このような観点を踏まえて「他者と生きる」という本書のタイトルを振り返ると、一人一人の「自分らしさ」は「周りと切断された自分らしさなどではなく、他者と接合されたそれ」という磯野の言葉が腑に落ちる。
ところで、来年はいよいよ大阪万博が開催される。投入される公費が膨れ上がるとかパビリオンの建設が遅れているとかと心配されているが、各々の関係者は着実に準備を進めている。そのなかで「NTTパビリオンでは来場者の身体をスキャンしたデータを基に再現したアバター(分身)が離れた場所の実空間を巡る」という記事(日本経済新聞4月16日付朝刊)に目が留まった。じつは、NTTでは、社長の分身アバターをいくつか制作していて、AIを駆使して各々の分身が社長の代理(言葉の応答)ができるようになっているという噂がある。著名経済人の名前を語った投資詐欺が横行していると言われているが、本人に成りすまして(本人同等の)コミュニケーションができる分身が、メタバースの世界では当たり前の姿になるようだ。そのような世界においては「個人主義的人間観」に支配された法律や社会制度だけでは立ち行かなくなることは自明だろう。
(続)
Wasedaウェルネスネットワーク会長・中村好男
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