昨日(12/12)の日経朝刊(3面)に、
「政権人事刷新 リスク含み」
という見出しの記事が掲載されていた。
自民党最大派閥の安部派の政治資金集めパーティ収入の一部が政治資金収支報告書に記載されずに裏金として処理されていた問題で、岸田首相が政権要職に就く安部派幹部の交代を検討しているということを報じた記事である。
政権に対する批判をかわすための人事ではあるものの、捜査の進展で新たな疑惑が発覚すれば「辞任ドミノ」に陥る恐れ(リスク)があるという。疑惑を持たれた閣僚を更迭するのはよいとして、それで収まらなかったらせっかくの人事刷新が逆効果になってしまう恐れもあるし、そもそもこれまでの政権運営を担ってきた屋台骨の閣僚を交代させることで、政策実現に支障をきたすことも懸念されるのであろう。
この記事の内容はともかくとして、私が気にかかったのは「リスク」という言葉。私たちは、このような状況において「リスク」という語を用い、それに納得するということ。
一般的には「リスク」というのは「避けるべきこと」と思われているし、完全には回避できないとしても、それが生じる可能性を最小限にするか、あるいはそれが起こっても支障をきたさないように保険を掛けることでリスクに対峙しようとする。
ところで、今回の記事に記されている「リスク」とは、いったい誰にとってのどのようなリスクなのであろうか?
確かに、岸田首相にとっては、自身の首相としての責任が問われることであり、場合によっては辞任しなければならなくなる可能性もあるので、リスクであることは間違いない。しかし、内閣打倒あるいは政権交代を目指す野党にとっては「チャンス」であるに違いない。誰かにとってはリスクなのかもしれないけれど、他の誰かには無関係だし、別の誰かにとってはチャンスとなる。少なくとも、もし主要閣僚が交代したとしても、それが国民のリスクとなるとは到底思えない。
多くの場合、「リスク」という言葉は、それが「誰かのリスク」にすぎなかったとしても、あかたも「皆のリスク」であるかのように錯覚される場合も多い。ウクライナへのロシアの侵攻に関しても、「この戦争は(全人類にとってのリスクなので)早く終結させるべきだ」と思っている方が大多数なのだけれど、実際のところはそれをチャンスと感じて「戦争が長引くこと」を期待している輩もいる。ガザへのイスラエルの侵攻だって、どこかの大統領にとっては(言葉には表さないけれど)、ウクライナ支援のムードを抑えるとともにアメリカ非難の材料になるので、好ましい進展であるらしい。
政治の話をしているのかと疑われるといけないので、慌てて私たちの身の回りの出来事に話を戻すと、4年前に突如として起こったコロナ騒動は、いったい誰にとってのどのような「リスク」だったのか?
2020年2月16日に大阪のライブハウスで発生した(と報道された)クラスター感染の被害者であった四国在住の女性が、その後、職場や周囲からの非難を受けて自殺したという事件があった。このような悲惨な事件には至らなくても、コロナの感染を恐れて病院での面会が遮断されたり、遺体が何重にもくるまれて家族が弔うことなく荼毘に付されるなど、いったい私たちは、「誰のどのようなリスク」を低減しようとして、一部の人々に対して多大なる犠牲を強いることとなったのだろうか。経済的に困窮するようになった方も少なくなかったし、ワクチンを接種したショックで死亡する人もいた。
すべては「リスク」を避けるため。
多くの方々の犠牲や困苦によって、どれほどの「リスク」がどのように回避されたのかということは、検証されていない。
メタボ(生活習慣病)であれ地球環境であれ、この世の中にはあらゆる種類の「リスク」が存在する。場合によっては、年金や社会保障といった、私たちの福祉(幸福)の基盤自体にさえ「リスク」を意識させられることさえある。そして私たちは、そのような「リスク」を最小限に抑えようと努力を傾注する。
そのようにリスクを避けようとする私たちの努力自体が、(コロナ禍の犠牲者のような)別の誰かの不幸を増やすことにつながることもあるし、そのような私たちの努力自体を「チャンス」として待ち受けている方々もいる。例えば、風力発電や太陽光パネルは地球環境リスクを低減させようとする我々の努力を支える技術であり、それをチャンスとして技術開発が進められている。
誰かのリスクは別の誰かのチャンスにもなる。
「リスク」を恐れる前に、そのリスクが誰のどのようなリスクなのかという、リスクの本態を明らかにする必要があるということを、朝刊の記事から改めて学んだ。
Wasedaウェルネスネットワーク会長・中村好男