WWNウエルネス通信 (2023年10月3日):「ひきこもり」になれない私たち

先週末(金~月)那須に行った。

月曜日の夕方に帰宅してみると、息子がテレビ(録画してあった昔のバラエティ番組)を見ていた。

 「何もする気が起こらなくて」

と弁解していたが、聞けば、仕事が4日間(日~水)休みとのこと。

 「テレビを見ているではないか(=何もしてないわけではない)」と突っ込みたかったけれど、穏当に、

 「何もしないことも大切だからね」

と返答してあげた。が、返す刀で

 「ところで、那須には何をしに行ったの?」

と質問された。

 「車の12か月点検とか、プロジェクトの打ち合わせとか。まあ、メインテナンスだね。」

と答えたのだけれど、そういえば、家の補修(外壁やボイラー)の確認や薪代の振り込みとかも行った。

彼(愚息)は、今年3月に4年間務めた仕事を辞めて転職した。最初は「公務員を目指して」いくつか試験を受けていたようだったけれど、5月には就職活動を始めて、7月からは会社員(就業者)として勤めている(きっと来春までの無職に耐えられなくなったのではないだろうか)。

 私は密かに、「ニートになるのも悪くないのでは」と、決して漏らせない思いを抱いていたのだけれど、彼にとってはそのような人生は想像できなかったようだ。

 それはさておき、最近、「ひきこもり当事者の社会学(伊藤康貴著、晃洋書房)」という本を読んだ。高校で不登校になって退学し、大検を取って大学を目指したものの勉強する気が起こらず、2浪後に単位制高校に編入して卒業後に大学進学。大学院を経て、「ひきこもり」を対象とした社会学研究に従事。博士取得後に結婚&就職(大学講師)という経歴に少し安心するけれど、「ひきこもり当事者」としての経験と、他の当事者への支援活動を踏まえた社会学的論考は読みごたえがあった。

 同書によると、私たちの世の中には

 「勉強→良い学校→ちゃんと就職→結婚→出産→家を建てる→親の介護」

という《手本》があって、この模範(社会規範)から外れてひきこもったとしても、周囲の期待とその期待に応えようとする当事者の志向が確固としていて、ほとんどの「ひきこもり支援」で目指されているのは、この《手本》を模倣する「社会復帰」なのだという。

》そもそも「教育」はそのような価値観を内面化する営みである

》「若者の問題」というのは常に、その未熟さが問われつつ将来的な成熟が期待されるという形式を繰り返してきた

》その「問題行動」は「未熟」とまなざすことを通じて若者個人に帰責され

》「変わるべきは(社会ではなくて)自分」という観点は、心理学的知識に基づいて社会に適応できるように自己をコントロールするという作法を強化

というようなくだりは、私の留飲を下げた。

私の息子が「就職」を志向するのは、当たり前のこと。

かくいう私も、上述の規範から全く逸脱していない(できなかった)。

若いころ「中村さんは塀の上を歩き(周りをはらはらさせ)ながら、あちらの世界には行かない(逸脱しない)生き方をしている」と喝破してくれた後輩がいたのだけれど、まさにその通り。私としては、いつも「あちらの世界」を垣間見ながら「行ってみたい」という欲望は起こらなかった。もし本当に行っていたとしたらどんな人生になっていたのだろうかと気にならないわけではない。

ところで、以前述べたように「なにもしない」ということはとても難しい。

思えば、「年金生活」という高齢者の暮らし方は、ある意味では「ニート」ともみなせるし「ひきこもり」になることも容易だと思うのだけれど、実際のところは「閉じこもり」という(ひきこもりとは違う)呼び方で社会参加を促す福祉圧力が常に付加されている。私だってきっと、この社会規範からは逸脱できないに違いない。私たちは自分の意志で社会参加しているように見えて、じつのところは「ひきこもり」になれないだけなのかもしれない。

標準的人生という《手本》に沿って生きていく限り、社会規範は私たちに安心感をもたらすのだけれど、そこに馴染めない人々には艱難辛苦が与えられる。

でも私は、「隠居生活」というニートな姿にも少しあこがれている。

Wasedaウェルネスネットワーク会長・中村好男

http://wasedawellness.com/

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