今週月曜日(25日)、「芹洋子と歌う」というイベントに参加した。
「うたごえ仲間ドレミファソ」という会が主催したもので、そこに矢野さんの姉上(野口映子さん)が関わっているようで、矢野さんから誘われた。
会場のここねりホール(練馬駅前)には300名近くの(私よりご高齢の)皆様が参集していた。最初は、主催者の男性(池田あきよしさん)のトークで歌が紹介され、正面と右側面のスクリーンに大きな文字で映し出された歌詞とピアノ伴奏に合わせて野口さんの清らかな声と共に皆さんが歌う。
「皆さん」といっても口ずさんでいた人は半分程度で、歌っていない人も多かった。私はといえば、完全な「アウエー」感を抱きながら、最後尾の端の席からその光景を眺めることしかできなかった。
最初は(私の子どもの頃の)文部省唱歌で耳なじみがあったが、15分ほど経った頃に流れた「小さな木の実」は初めて聞く歌だった。スマホで調べてみると「1971年にNHKのみんなの歌で発表されたものだとか。
その後も、「小さな日記(1968年)」、「ちいさい秋みつけた(1962年)」、「里の秋(1948年)」と続き、「肩たたき(1923年)」では自分の肩を叩くというレクレーション動作も加わる。一呼吸おいてから、「アニーローリー」、「ローレライ」、「おおブレネリ」、「森へ行きましょう」というヨーロッパの民謡が続き、いきなり「翼をください(1970年)」に転換。最後の「Love & Peace」は、何の歌なのだか調べてもさっぱりわからなかったけれど、歌が進むにつれて、少しずつ歌う人が増えていったようだった。
45分ほどたって、芹さんが登場しないまま休憩。
でも聴衆には休憩後に芹さんが登場することが分かっていたようで、いきなり「花ぐるま(1979年)」を歌いながら芹さんが登場。
それまでの野口さんの声も清らかで素晴らしいと思ったけれど、芹さんの声はそれをはるかにしのぐ清涼感。
「まわれ輪になれ まわる地球は 花ぐるま♪」
というサビの箇所では、思わず身体が動きそうになった。
曲が終わると、芹さんのトーク。作曲者の小椋佳さんに初めて出会った時の(とても暗い人という)印象から始まって、気軽なトークを挟みながら、「朧月夜(1913)」、「夏の思い出(1949 )」、「赤とんぼ (1927年)」と続いて、最後は、「四季の歌(1976年)」~「思い出のアルバム(1983年)」でこのセッションを終える。
休憩をはさんだ第3部では、主催者の池田あきよしさんが作詞作曲を手掛けた「青空よ白い雲よ」から始まって、聴衆のリクエストに応じて、芹さんと一緒に皆が歌う。この頃になると、私以外の参加者の8割以上は声を出して歌っていたようだ。
そして、圧巻は「遠い世界に(1968年)」。(スマホで調べたところ)「五つの赤い風船」のデビュー曲。私が小学生の頃の歌で
「それとも 赤い風船に乗って/雲の上を 歩いてみようか」
などの歌詞は自身の束縛から解放される心を喚起してくれるもののように思えるけれど、当時の私にはそんな歌詞の意味はわからなかったことに気づく。
でも、後半部分の
「…だけどボク達 若者がいる/…/これが日本だ 私の国だ/若い力を 体に感じて みんなで歩こう」
などという歌詞を聞いていると、「若者の歌」だったのだなぁと改めて感じる。
それを「高齢者」が歌うのだ。きっとこの歌が流行ったころは、皆それぞれが
「明るい太陽 顔を見せても/心の中は いつも 悲しい」
という歌詞に共感する「若者」だったのだろうと確信した。
だんだんと盛り上がってきて「高校三年生(1963年)」では、ほとんどすべての参加者が歌う。私は冷静に、
「私が5歳の頃に高校3年生だったのは、私より一回り上の78歳くらい」
などと計算しながら、おそらくは聴衆の多くが舟木一夫の歌声と自身の青春時代が重なっていたのではないかと、あらためて人生における「歌」の重さに感じ入った。
最後はなんと、「あの素晴しい愛をもう一度(1971年)」。
「熱唱」というレベルに到達していた参加者も多かったように感じた。
なんと、私も口ずさんでしまった。
「うた」を《聴く》だけでなく、「こえ」を《出す》ことによって身体が整うという効果もあるかもしれないが、自身の人生の折々に関係づけられる「うた」が「脳」と共振することの意味も大きいと思う。
「みなさん、元気に暮らしましょう!」
と放たれた、最後の芹さんの言葉がとても印象に残った。
「うたごえ仲間ドレミファソ」という歌の会は、毎月、練馬(ここねりホール)・大泉学園(練馬勤労福祉会館)・武蔵関(関区民ホール)で行われているらしい。
Wasedaウェルネスネットワーク会長・中村好男