掲題の書(小林武彦著、講談社現代新書、2023)を読んだ。
多くの(ほとんどの)動物は生殖を果たしたのちに死ぬ運命にあり、哺乳動物の中で生殖可能期が終わってからも寿命が絶えないのはヒト以外にはシャチとゴンドウクジラだけとのこと。そして、著者は、生殖機能が衰えたのちの期間を「老後」と呼び、この「老後」の存在がヒトの特徴なのだという。
前書「生物はなぜ死ぬのか(講談社現代新書、2021)」では、「死」はあらゆる生物にとって必要なことであり、これまでのあらゆる生物が死に続けてきたからこそ生物の進化がおこり、人類の誕生もその延長上にあるのだと解説してくれた。
本書では「なぜヒトだけに長い老後ができたのか」という謎を解題する。
結論としては、進化の結果としてもたらされたヒトの「社会」の中で、生殖機能の減衰した「シニア」の存在が必要だった。逆に言うと、そのような「シニア」の役割を必要としたグループが、現在のヒトという種として生き残ったのだという。4万年ほど前に私たちの祖先であるホモ・サピエンスがネアンデルタール人を絶滅させた理由の一つに「集団の大きさ」が挙げられている。ネアンデルタール人が100名ほどの集団で暮らしていたのに対して、ホモ・サピエンスは1000人程度の規模だったらしく、智慧と統率力を発揮する長老(シニア)の機能が大きな役割を果たしたのではないかとのこと。
結局のところ、現存人類(ホモ・サピエンス)が獲得した「分業」を高度に発展させるうえで、リーダーとなるシニアに多くの技術や知識が蓄積され、それが引き継がれていくプロセスが大きな役割を果たしたのだという。
「シニア」に期待されるのは、リーダーとしての統率力だけではない。そもそも、あらゆる哺乳類の中で、ヒトは子育てに大きな労力を必要とする種だ。例えば、ヒトとゴリラは、どちらも生後2~3年は親からの食餌(主として母乳)を必要とするが、ヒトと違ってゴリラの赤ちゃんは泣かないのだという。さらに、ゴリラの赤ちゃんは生後まもなく自力で母親の体毛を掴んでしがみついて移動するので、母ゴリラは両手を使って木に登ったり食料を取ったりできるとのこと。
ヒトの赤ん坊はしょっちゅう泣いて要求するし、しがみついてもくれない。赤ん坊はいつでもつきっきりで世話することを要求するのだ。もちろん、父親も育児に参加するとはいえ、ここでの救世主は「おばあちゃん」だとのこと。「おばあちゃん」が元気で長生きな家族ほど子供を持てるキャパシティが高く、遺伝子を遺す可能性が高いらしい。じつは、ヒト以外に「老後」を有するシャチとゴンドウクジラも、群れにいるおばあちゃんが子育てに協力するのだとか。
「分業」という仕組みを高度に発展させて進化した人類の社会が、「シニア」の役割を活用する分業体制を整えることで「シニア」の価値を高めてその存在を必要とするようになる。このような「正のスパイラル」が、今の我々の社会の活力の基盤になっているのだと合点した。
「老後くらい(役割と言わずに)静かに過ごさせてほしい」
と願う方も多いことと思うのだが、ここでいう「分業」というのは「誰もが生涯労働すべき」ということでは決してない。赤ん坊には赤ん坊の役割があり、子どもには子どもの役割がある。「シニア」の役割は「老いたものだけができるあらゆる可能性」のことを意味するのであって、「勤労所得を得る」こととは直結しない。
しかもそれは、画一的な「役割」なのではなくて、一人一人が社会の中で期待される各々の「役割」。それが、私たち人類が培ってきた究極の「分業社会」であるはずだ。
私たち「シニア」には、「シニア役割」というステレオタイプな役割があるわけではないし、ましてや「おじいちゃん役割」とか「おばあちゃん役割」といった性で区別される役割でもない。
私は重度障がい者や寝たきりの高齢者も含めて、だれもがそこに存在するだけで社会の役に立っているのだと確信している。
「老いた人がいる社会が選択されて生き残ってきた」
「老いはいいシニアになるためにあるのだ」
という著者の言葉をかみしめたい。
Wasedaウェルネスネットワーク会長・中村好男