「なにもしない」をする
この言葉に出会ったのは先月(2023年7月2日)のことだった。
日本経済新聞朝刊の文化欄(最終ページ)に掲載されていた「海猫沢めろん」さんのエセーの表題として、大きなフォントの横書きでこの文字が示されていた。
内容は、ご自身の「小学生の子供が不登校になった」話。
お医者さんに相談したところ「休ませて、全受容しろ」と言われ、「登校はおろか、中学受験もやめ、ゲームやマンガやYouTubeも⾃由にしたら以前より楽しく過ごすようになったので、そろそろいいだろうとフリースクールに⼊れた。ところが、腹痛で通えず勉強はリモートで週⼀になってしまった。」とのこと。
「それでも⾒守れといわれたので、⾒守っているのだが親としてはこれがつらい。なにかしら⼲渉したくなってしまう」
のだという。
そのお子さんは、幼稚園のころから「なにもしたくない。将来は仕事も勉強もなにもせず楽に暮らしたい」が⼝癖で、それに対してはつねに、
「いいね︕ 意味や価値がなきゃ存在を許されないなんて思想はまちがってる。そんなもんなくても⽣きてりゃいい」
と応えていたものの、「学校は⾏った⽅が」とか、「ずっとYouTubeはなあ」というような「最低ラインや常識」にとらわれて、⼼のなかで「なにもしないこと」を否定してしまっていたのだという。
前回(8月6日に)私が記した「なにもしない」は、自身の行動のこと。
本当は、この海猫沢さんのエセーに触発されて書き始めたのだけれど、いざ綴っていると、
「ボーっとする」ということがなかなかできなくなっている
ということを語るだけになってしまった。
「他人」しかも「導いてあげたい身近な他者」に対して「なにもしない=何も言わない」ことは、自身が「なにもしない」ことよりも相当に難しい。仕事(ビジネス)上の人間関係であれば、「自分がどう思うか」よりも「相手がどのように受け止めるか」ということの方が重要だということは、当然のようにわかっているのに、近しい関係の他者(とくに家族)に対しては、「気づいた(思った)ことをそのまま言ってしまう」という場面が横行するようだ。私もいつも自戒しているのだけれど、言ってから後悔することも少なくない。
それはさておき、海猫沢さんのエセーの主題は「不登校」。
子どもに対して「勉強しなさい」という言葉が全く無意味(どころか逆効果)であることは、大人の誰もがわかっているはずなのに、「学校に行く」という常識から逸脱できる人はよほど奇特な人だ。もちろん、最近では「不登校」に対してずいぶんと理解が進んできて、お医者さんや先生や周りの方々は「見守る」ことの大切さを語るのだけれど、「親」の立場はそれほど簡単ではない。
海猫沢さんも、自身の⼼に問いかけてみたところ、「学校で⼈間関係を学べ︕」「ナメられない⼤学にいけ︕」「就職して⾃⽴しろ︕」という声が聞こえたのだという。そして、
「他⼈を蹴落とし積極的に学ぶ鈍感な⼈間だけが⽣きられる競争社会より、繊細で優しい⼈間にも居場所がある共⽣社会のほうがいいに決まっている。不登校の⼦供たちが何の問題もなく⽣きていける。それが新しい理想の社会ではなかろうか。」
と述べる。そして、
「しかし、それを受け⼊れるのは難しい。だからせめて、「なにもしない」をする。それもまた、多様性を認める最初の⼀歩だ。」
と結ぶ。
「なにもしない」ということを一つの「積極的(自発的)行為」だと認識することで「不要な発言」を自戒する。これが「なにもしない」ことの本当の意義なのだと思う。
もちろん、「不登校」だとか「認知症」だとかといった「顕わになった状態」であれば、「全受容=見守る」という態度の重要性もわかりやすいのだけれど、それ以前の段階で何気なく起こってしまう社会規範の押し付けにも注意を払いたい。
Wasedaウェルネスネットワーク会長・中村好男
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