先週から那須に来ている。
「夏休み」といえば聞こえは良いけれど、zoomが標準的になったおかげで、火曜日の定例会議はいつもどおりだし、いつもどおりに事務所で仕事している皆さんからのメールはひっきりなしなので、メールチェックも朝昼晩どころではない。メールという道具の本性なのだと思うのだけれど、それを読むと、その業務に対応して返信しなければならないので、パソコンから手が離せない。おまけに、スマホのラインは、メールよりも速やかな対応が急かされているようで落ち着かない。
今日は日曜日なのに、休みのはずの(二人もの)職員からメールが来るし、「どこにいても仕事ができる」という恩恵に浴しているのは、私だけではないらしい。こんなことで、日本の「働き方改革」が実現できるのだろうかと、少し心配になった。
それはさておき、那須にはテレビがないので、パソコンとスマホから離れていれば、ぼーっと過ごすことも可能だ。私も時々、何もしないで(考えることも抑制して)ただただ「ぼーっ」と過ごすことがある。といっても、10分もするとそわそわして本を読み始めたりして、「ぼーっ」とすることを楽しむ境地にまでは至っていない。
ふと思いついて、グーグルで「なにもしない」と検索してみると、「何もしない」という本(ジェニー・オデル著、早川書房)の販売サイト(Amazon)が冒頭に挙げられていた。まだ読んでいない(おそらく読まない)のだけれど、ネットの紹介記事を見ると、同書の冒頭は、
「何もしないでいることほど難しいことはない。」
というフレーズで始まっていた。暇に耐えられないのが現代人の性ともいえるのだろう。
同書は、二年前(2021年)の9月に発刊されているが、同時期に、「何もしない習慣」という書(笠井奈津子著、KADOKAWA)も発刊されているので、コロナで揺れていたこの時期に求められた考え方なのかもしれない。
そういえば、私が「暇と退屈の倫理学」(國分功一郎著、新潮文庫)を読んだのは、翌2022年の春だったから、やっぱりコロナ禍は「退屈」と向き合うことを私たちに課していたのかもしれない。
慌てて話を戻すと、「那須に来るとぼーっとできる」ということを冒頭で言いたかったのだけれど、いつのまにか「なにもしないことは難しい」という話になりそうなのだ。つまり、今の私は「なにもしない=ぼーっとすること」を大切にしたいと心掛けているのだけれど、「なにもしないこと」を語ろうとすると「ぼーっとするのは難しい」という話に進んでしまうほどに、それほどまでに、私にとっては「なにもしない」ということが容易ではなくなってきているのだろう。
さて、周りを見渡すと、この3年で周囲の空き区画は新築ラッシュ。那須全体でも別荘需要が高まっているとのこと。当然のことながら、テレワークが広まってきたこともその一因だと思う。私も、那須に来ても東京と同じように仕事をしているのではないかとの実感がある。もしかしたら、zoomで会議している仕事仲間にとっては、私がどこにいるのかなんて全く気付いていないのではないかとも勘繰っている。
そのうち、那須で生活する人にとって、ここが「非日常」を演出する場所ではなくなってしまうかもしれない。
私たちが普段何気なく見ているスマホやパソコンの画面には、数々の「広告」が現れる。これは「注意経済(アテンション・エコノミー)」といって、私たちの「注意」や「関心」に価値を付して、その露出やクリックに応じて広告料を支払うことで、注意関心を貨幣のように取引する経済活動だとのこと。いくら私が、静かにぼーっとしていたいと思っても、スマホやパソコンの画面が身近にあると、私の「注意」が画面に吸い寄せられるように仕向けられている。これを、「大企業が人々の時間と注意を無断で搾取する」と告発する指摘もあるのだけれど、60年前から私が馴染んでいるテレビCMも、いってみれば「注意経済」の元祖に違いない。
「なにもしない」ということはますます困難になっていくのかもしれないが、これからも時々は「なにもしない」時間を大切にしたい。
Wasedaウェルネスネットワーク会長・中村好男
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