WWNウエルネス通信 (2023年6月25日):「ぜいたくは素敵だ!」

前回、「目的への抵抗(國分功一郎著、新潮新書)」という書の感想を記した

要約すると、

》私たちは「目的」のために「手段」を正当化する。

》その「手段」によって自身の行動が制限されたとしても、「少しの我慢」と受け入れる従順さを持っている。

》「ゲームを我慢して勉強する」ことも、「ウイルス蔓延防止のために我慢する」ことも、

》「目的のために正当化された手段」に従順に従うこと。

》でもそのような従順な態度は、

》「障がい者として生きるために不妊手術を受け入れる(強制する)」というような、おぞましいほどに大きな犠牲の温床になっているかもしれない。

ということを、私が感じたということ。

確かに「目的」は私たちの社会に欠かせない要件なのだけれど、「目的」と「自由」の対立構造を意識することができなければ、私たちは「目的を達成するための手段」に蹂躙される可能性もあるということを常に意識していたい、ということが、前回の私の感想であった。

ところで、前回も話題にした2020年の緊急事態宣言の折、「不要不急」という表現がよく使われた。当時は「仏教は不要不急のものなのか?」とか「スポーツジムは不要不急ではない」などの論考が著わされたりしたが、そのような必要性の主張の背景には、「不要不急と名指されたものを排除するのを厭わない社会の傾向」もある。

これもまた「目的」への従順。

國分氏によると、「必要」は「何らかの目的と結びつている」とのこと。確かに、「必要と言われるものは何かのために必要なのであって、必要が言われるときには常に目的が想定されている」ということは合点がいく。

では、「目的を達成するための手段」に従順になる(蹂躙される)ことを防ぐためには、いったいどうしたらよいのだろうか。

國分氏は、その解決法として「贅沢」という概念を推奨する。

「贅沢」とは「何らかの限界を超えた支出」のことで、

「贅沢を享受することを浪費というならば、人間はまさしく浪費を通じて、豊かさを感じ、充実感を得てきた」

と論考する。

「食が(栄養摂取という)目的しか追求しないようになったら、食における人間らしさは失われてしまう」

とも言う。

「あらゆることを何かのために行い、何かのためではない行為を認めない。あらゆる行為はその目的と一致していて、そこからずれることがあってはならない」という性向に支配されるのではなく、「目的のない手段」、「純粋な手段」があっても良いのではないか。

「人がぜいたくをするのは、それが喜びをもたらすから」であり、「美味しいものを食べるのは、それが美味しいから」だという。「ゲームのためにゲームを愛し」、「チェスのためにチェスをする」。そのような、「目的に支配されない贅沢」を通じて、「人生のために人生を生きる」ことが可能になるのではないか。同書を読みながら、そんなことを実感した。

同書は、

》人間の自由は、必要を超え出たり、目的からはみ出たりすることを求める。

》そこに人間が人間らしく生きる喜びと楽しみがある。

と結ばれている。

そういえば、2011年の3月。東京に桜の開花宣言が発出されたとき、当時の東京都知事(石原慎太郎氏)は、

》今ごろ、花見じゃない。同胞の痛みを分かち合うことで初めて連帯感が出来てくる。

》戦争の時はみんな自分を抑え、こらえた。

》戦には敗れたが、あの時の日本人の連帯感は美しい。

と述べて顰蹙を買っていたけれども、それに賛同する意見も少なくなかったことにも警戒したい。

戦争中は「ぜいたくは敵だ」との標語もあったが、「贅沢」が否定される世の中に戻ってはいけないと、心から確信する。

「目的に縛られない自由」を行使できるという「贅沢」を大切にしたい。

Wasedaウェルネスネットワーク会長・中村好男

http://wasedawellness.com/

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