WWNウエルネス通信 (2023年2月19日):「60歳からはやりたい放題」という書名から思い浮かべた「資本主義の時間」について

昨日朝刊を開いたら「60歳からはやりたい放題(扶桑社新書)」という書籍の広告が目に留まった。著者は「80歳の壁」で話題になった和田秀樹氏。私は、その前に刊行された「70歳が老化の分かれ道 (詩想社新書)」を読んだけれども、「80歳の…」は読んでいないし本書も読まないと思う。でも、ちょっと気になった。

 というのも、先週、「学校を駆動する資本主義(中井孝章著)」という書を読んだ折に、「資本主義にビルトインされた時間形式(以下、資本主義の時間)」という考え方を知ったからだった。

 過去の経験を振り返り未来に実現すべきことを展望するという「時間」の感覚自体は、あらゆる言語に過去形や未来形が存在することが示すように、(動物にはそのような時間感覚がないそうなのだけど)人類特有の観念であり、「資本主義」であろうが「社会主義」であろうが、近世の人類が創出したイデオロギーに影響されるわけではない。しかしながら、「資本主義」は「将来のより多い富のために現在の消費を抑制し投資しようとする個々人の心的傾向」が基盤になっていて、それゆえに「資本主義下の学校は、生徒個々人が将来のより高い目標のために現在の活動(自由なやりたい活動)を抑制し、勉強を頑張ろうとする心的傾向から生じる学習活動の総合的な表出である」と述べる。

 ちょっと、難解な表現なのだけれど、要は、「将来のために我慢して勉強する」という原理を教え込んで、「未来のために現在を生きる(=将来のために現在の活動を手段化する)」という資本主義社会の形式になじませることも、現在の学校の機能の一つなのだということ。だから「宿題がある」ということになる。

 ちなみに、私のゼミでは「強いて勉める」という本来の意味での「勉強」を勧めない。というか「教えない」ことをモットーとしてゼミを運営している。学生個々人に芽生えた興味について、各々が思索を深めて研鑽を積むことができるように仕向けたり助けたりすることが教育の本旨と心がけているからである。でも、高等学校までの「学校教育」とはあきらかに趣旨が異なっているようだ。つまり、私のゼミはもはや「資本主義下における学校」の役割を果たしていないということなのかもしれない。

 それはさておき、忘れないうちに最初の話題に戻すと、「60歳からはやりたい放題」という書籍のタイトルは、「将来のために現在の生活を整える」という考え方とは正反対で、きわめて享楽的・刹那的な生活を奨励しているような感を受ける。実際、同書の目次を見てみると、「嫌なことはやらない」「好物を食べれば脳も体も健康に!」「嫌な人と付き合うよりは孤独でいい」「お金使うほど幸福感は高まる」などなど、なんとも刹那的な言葉が並んでいる。

 誤解されないように慌てて弁解しておくのだけれど、そもそも「刹那」とは、時間の最小単位を表す仏教用語で、「(前世などと余計なことは考えずに)この刹那を大切にして生きよ」と諭したお釈迦様の助言からきた言葉だそうで、「今この瞬間を大切にする」という人生観と言えるだろうか。私はそのつもりで「享楽的・刹那的」という言葉を用いたのであって、悪い意味で使っているつもりはない。(「享楽・刹那」が否定的に受け止められるのは資本主義社会の教育の成果なのかもしれない。)

 またまた余計な注釈をつけてしまって長引かせたけれど、要は「60歳を過ぎたら…」では、「将来のために現在の生活を抑制する必要はない」ということをおっしゃりたいのだと合点がいった。つまり、もう「学校」に行く必要もないし、「将来のための仕事」に殉じる必要もないということ。

 もちろんそれが「資本主義」自体を否定するわけでは決してないのだけれど、「年金」という制度は社会主義的な福祉制度なので、年金生活を享受するということは「資本主義の時間」から脱却できるチャンスを与えてくれているのかもしれない。

Wasedaウェルネスネットワーク会長・中村好男

http://wasedawellness.com/

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