WWNウエルネス通信 (9月11日):「幸せを数えたら…」

40年ほど前、掲題のフレーズで始まる歌が流行った。

 「流行った」というのは言い過ぎかもしれないけれど、少なくとも私は時々口ずさんだりした。

先週のウォークで、歩きながらNさんが、

 「先生は、幸せと不幸とどちらが多いか?」

と問いかけてきたので、

 「幸せとか不幸とか、数えるものですか?」

と応えたら、そういう歌もあったというので、思いだしたのだった。

ここには歌詞は書かないが、確か、「幸せを数えたら片手に余る(4個以下)けれど、不幸せを数えたら両手でも足りない(11個以上)」というような歌詞だったような気がする。

 そこで改めて、私の場合を考えてみたのだけれど、「不幸」という事態が、どうもうまく思い浮かばなかったので、

 「私には、不幸がないようです」

と答えた。

 じゃぁ「幸せいっぱいなのか」と問われても、何とも言えない。

 確かに私は日々の生活を幸せに過ごしているので、「幸福」といっても過言ではないのだけれど、「私の幸せはこれとこれで、私の不幸はこれとこれ」などと挙げることができないということ。

 日々の出来事の中には「良い事/嬉しい事」は数々あるし、「良くない事/悔しいこと」も少なくはない。だから、「良い出来事」とか「不愉快に感じたこと」という出来事を数えることはできるのだけれど、「不愉快」だからといって「不幸」なのかというと、あながちそうとも言えないだろう。例えば、ゴルフでティーショットがOBだったからといって、悔やんでみても始まらない。

 「そんなことを言っているんじゃない」、という反論をいただきそうだから慌てて付け加えておくと、例えば「親しい知人がなくなった」とか「知人が事故にあって大けがをした」といった場合は、「ご不幸に遭われたこと」に対してお悔やみを述べたりするので、確かに「不幸な出来事」というのはある。でも、それを「一つ」と数えて「幸せの数」との多少を比較したりするものではなかろうということ。「ご逝去」とか「大事故」などという不幸は、その大きさ(甚大さ)に思いを至すことがあったとしても、一つ二つと数えてその「数」を確認するものではなかろう。しかも、自身の身に降りかかった「不幸」だとしても、過ぎてしまえばそれを「事実」として受け止める以外に道はないのだから、その「不幸」を記憶にとどめて数え上げることに意味を感じないということだろうか。

 それにしても、それからしばらく考えてみたのだけれど、私自身には「不幸なこと」を思い出すことができない。だから、よっぽど幸せな人生なのだと思う。

 でも、先に述べたように、「うまくいかない事」や「悔しい事」には、(ゴルフをやる人ならわかるだろうけど)しょっちゅう遭遇する。でも、「良くない事」や「つらい事」であっても、それを次の成功へのチャンスととらえることができれば決して「不幸」にはならないのではないか。

 それともう一つ。もしかしたら、私は「忌まわしい出来事」があったとしても、それをすぐに忘れるたちなのかもしれない。少なくとも、「良くない現実」に遭遇したとしても、それに思い煩わされることなく、「どうしたら良いのか」という次の行動に思いをはせて、その結果として「良くない現実」が存在していたことをそのうち忘れてしまうのではないかと、あらためて感じた。

 同じ出来事であっても、人によって受け止め方は様々だし、「良くない事」を「不幸」と思うかどうかどうかという感性にも個人差があって、私の場合は「不幸」と思う感性が鈍いのだろうと思う。

 自分の身に起こったことを「良かった」と思うか「悪かった」と思うかということもさることながら、それを「幸せ」と思うのか「不幸」と思うのかということも、考え方次第なのかなと、Nさんとの会話を通じて感じ入った次第である。

Wasedaウェルネスネットワーク会長・中村好男

http://wasedawellness.com/

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