WWNウエルネス通信 (8月21日):「病院の世紀の理論」

 掲題の書(猪飼周平著、有斐閣、2010年刊)を読んだ。

本書は社会学の専門書で、データに基づいて理論構築している論説書なので、一般の皆様にお勧めするものではないが、とても興味深い書だったので、その内容を紹介したい。

 本書をかいつまんで要約すると、

 ・20世紀は「病院の世紀」だった。

 ・この「病院の世紀」は、「治療」および「治療医学」に対する社会的期待・信任が最も高まった時代である。

 ・しかしながら、この「病院の世紀」は終焉を迎えつつある。

 ・次世代の医療システムは、保健・医療・福祉が統合された「包括ケアシステム」として成立する。

というようなことで、それを展望するために「病院の世紀」を成立させた諸現象からいくつかの「理論」を構築して、そこから次世代医療システムの見通しを解説している。

 という私の説明もわかりづらいので、思い切って平たく言えば、

「20世紀の医療システムは包括ケアシステムに変わりつつある」

=「この30年間に医療の仕組みはずいぶんと変わってきたよ」

ということ。

でも、そんなことは、皆様はとっくにご存じのことで、30年前には「社会的入院」などという言葉がネガティブに(改善されるべきものとして)語られていたことを思うと、在宅で最期を迎えることができる今の世の中は、20世紀と比べてずいぶんと変わったものだとしみじみと思う。

 まだ医療保険の制度が整っていなかった昭和の初期、比較的裕福なグループに属していた俸給生活者であっても、「患者が発生したとき、多くの場合貯金を引き出して対応したが、15%の世帯では親族や友人などからの借入で医療費を賄っていた」(p.182)のだという。つまり、当時の日本では、「医療サービスは負債を抱えても購入しなければならない」と考えられるほどに、医療サービスへの支出意欲が高かった、すなわち治療(病気を治す医療)への期待が高かったということ。

 「病院の世紀」においては、「病気を治療してくれる医療」への期待は高いまま保持され、「治療への社会的・経済的資源を投入すること(=医療費が増大すること)への是認」が存在していたのだという。今般では、「医療費はやみくもに増え続けるのではなく適正に維持されるべき」という考え方が一般的になってきているので、この意味でも、20世紀の医療とは考え方が変わってきているのだと言える。

 そういえば、コロナ禍に見舞われたこの2年半を振り返っても、当初は(療養のための)ホテル確保やマスクの増産・配布などに多大な国費が投入され、その後は持続化給付金やGoToキャンペーンといった経済対策に多額の資金が投入された。さらには、ワクチンの購入や接種体制の確保へと資金投入の大きな流れは変遷していったのだけれど、医療サービスの充実に社会資源がどれだけ投入されたかということはあまり耳にしない。おそらくは、私たち国民の期待は、「コロナを治す医療」には向けられてはいないのだろう。

 そもそも、「病院」という医療サービスは、コロナ患者の受け入れにはあまり適合しなかった。それは、多くの病院が受け入れ態勢を整えられなかったということよりも、「療養」という名目の隔離施設として「ホテル」という療養施設が大量に確保されたことに現れている。もはや現在の病院には「社会的入院」の機能さえも期待されていないということなのかもしれない。

 そういえば、健康診断や人間ドックといった「健診」のほとんどの項目は意義(有用性)が認められないということが、20世紀末から次々に明らかにされているのだけれど、健診自体がなくなる気配はない。それどころか、本邦では特定健診・保健指導も含めてますます隆盛していると言っても良い。それは、「直接的な健康上の有用性が保証されていなかったとしても、健診・検診への期待は提供者・利用者双方の側から高く、実際に広く実施されている」というように語られている。

 つまり、様々な医療サービスが残るか廃れるかは、私たち国民がそれを望むかどうかにかかっていると言えるのだ。最後まで病院で治療を尽くしたいと思う人が多かった時代には、(自宅よりも)病院で亡くなる方が多かったのだけれど、無用な延命を望まずに自宅での最期を希望する人が多くなれば、終末期医療の役割と姿も変容せざるをえないということ。

 治療を中心とした20世紀の「医療システム」が「包括ケアシステム」に代わっていくとき、医師の役割は当然に変わっていくし、保健サービスや福祉サービスの在り方も変わっていく。それがどのように変わっていくのかは、まさに私たち国民の考え方やニーズの総意として方向づけされていくのだと思う。

 先に私は、障がいの社会モデルについて言及したが(7月24日31日配信)、海老原宏美さんが「私が障がい者じゃなくなる日」と期待した未来の姿は、社会の人々(私たち)の認識の変化によってもたらされるものだ。その意味では、今後展開される「包括ケアシステム」は、私たちの未来の認識の総意として、いわゆる「障がい者」だけにとどまらずに、さらにいえば疾患者や高齢要介護者だけにもとどまらずに、子どもや子育て夫婦やブラック企業の社員や貧困者も含めた、様々な生きづらさを感じる人たちが幸せになるための標準的な生活環境として昇華していってほしいと切に望むところである。

Wasedaウェルネスネットワーク会長・中村好男

http://wasedawellness.com/

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