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「先生は、休みの日は何をしてますか?」
ある日、学部ゼミの学生から、尋ねられた。
「仕事かな?」
と答えると、
「休みの日に仕事するのおかしいでしょ、どんなことしてるのですか?」
と、さらに問い詰められる。
「本を読んだりしてるかな」
と答えると、少し安心したようだった。
私にとっては、読書も仕事の一つなのであって、なぜ「仕事」はダメで「読書」だと納得されるのかが不可思議だったのだけれど、まあ、授業やアルバイトに従事することが「仕事」で、それらをしなくても良い「休日」には昼まで寝ていたり遊びに出かけたりという「休日」の過ごし方をしている普通の学生にとっては、「仕事をしない日が休日なのだ」という定義を信じているのもやむをえまい。
というか、本当は、「本を読んだり原稿を書いたり」と言いたかったところなのだけれど、「読書」だけに留めておいて良かったような気がした。
でも、私にとっては、「会議」だったり「授業」だったりという義務的な業務は「労働」として従事するものの、それ以外のあらゆる個人的作業は、論文を読むのも原稿を書くのも(ウォーキングだって)、義務的労働に従事しない時間帯におこなう立派な「仕事」と感じている。だから、休日(授業のない日)も仕事をするという感覚が自然なのだ。
思えば、そのような自由な時間に「仕事」をして過ごせる私は、平均的な勤労者と比べると極めて稀有な僥倖に恵まれた存在なのだろう。勤務時間の定めもないし、ノルマとしての授業だって自分でプロデュースできて、たいていのは自分の自由裁量で「仕事」に従事できるのだ。極端なことを言えば、授業などの義務的業務のない日は毎日寝て過ごしたとしても支障ない。
でも、私の周りの教授仲間で、そのように「暇」を持て余している人は誰一人として存在していないし、それどころか、毎日「仕事」に追われているように見える人の方が多いくらいだ。だから、教授たちの中には、土曜も日曜も祝日も関係なく働いている人もいるし、「休日」に「仕事」をすることに抵抗感を抱く人はほとんどいないだろう。
H.アーレントという20世紀の思想家は、人間の営みを、労働labor、仕事work、活動actionの三つに分けた。「労働」は生命を維持するための営み。「仕事」は耐久性のある物を製作し、それを通じて人間世界を創造する営み。「活動」は他者との共同行為、特に言葉を用いたコミュニケーションとのこと。
この著作は60年以上も前のものだし、私はきちんと理解しているわけではないのだけれど、「仕事」という用語が「創造的活動」を意味するように使われていた時代・場面があったのではないかと考えると、「休日に仕事をする」という言説も許されるのではないかと感じている。
もちろん、件のゼミ学生と私との間で「仕事」という言葉の理解が異なることも不思議なことではない。
「年金生活者」という言葉は、ネガティブに使われることも少なくないと思うのだけれど、「生活のための労働が免除されている」と考えれば、「仕事」や「活動」を充実させることで、より多くの生きがいを創造できるのではないだろうか。
Wasedaウェルネスネットワーク会長・中村好男