WWNウエルネス通信 (6月5日):「本を読むということ」

私は、早稲田大学大学院で、健康スポーツに関する専門家や指導者を対象とした社会人向けコースを担当している。毎年、何名かが受験相談を経て入学してくるのだが、先週も一人のフィットネス指導者が相談に訪れた。

彼女は、理学療法士の資格を持ちながら20年以上もピラティスの指導を続けておられて、ご自身でスタジオも経営されているので資質は充分とお見受けしたのだが、なにより卒業のためには修士論文を仕上げる必要があるし、その研究テーマを受験前に固めることが、何よりも重要な準備作業だ。この方も、ご自身で研究テーマを提示してくださっているので、通常ならそのテーマに沿って問題を整理していくのであるが、今回はふと思い立って、

 「最近どのような本をお読みになりましたか?」

と尋ねてみた。

 しばらく考え込んだのちに、

 「最近、本を読んでません」

とのこと。どのくらい読んでいないのかとさらに尋ねたところ、10年以上は本を読んだ記憶がないと言う。

 「情報収集はネットで済ませているので」

とのことであったが、そもそも読書は情報収集ではないのではないかとの思いが沸き上がった。

そこで、机上にあった「暇と退屈の倫理学(國分功一郎著、新潮文庫)」を見せて、購入して読んでほしいと伝えた。この本は哲学書なので、理解するのは容易ではないし、途中で読めなくなるかもしれないので、「どこまで読めたかだけでも良いので感想を教えてほしい」とお願いしておいた。

 思えば、最近は本(雑誌は除く)を読まない人が随分と増えてきたのではないだろうか。

 もちろん、「本」といっても、小説もあるしビジネス本やハウツー本もある。電子書籍も普及して紙媒体の書籍は消滅するのではないかなどと20年ほど前にはずいぶんと心配されていたが、今こうして振り返ってみると、紙媒体の書籍は依然健在である。

よくよく考えてみると、スマホというデバイスから得る「情報」は、様々なアプリによって精選されて切り取られたもので、そこから獲得されるのは「編集されて切り取られた情報の断片」にすぎないのだということに気づいた。

と、同時に、私が本を読むとき、読み進める文字から得ているのは、「情報」とはいえない。本を読むということに備わる役割や価値とはいったいいかなるものなのだろうか。

ということに思考を巡らせた私は、くだんの彼女に、

「本を読むのは、心を耕す作業なのです。」

と、助言した。

 おそらくは、情報収集は「心を固める作業」なのだとも思う。

情報収集のためのネット記事の閲覧では、自分の関心ごと(気に入ったこと)しか目にとめないし、それを知った瞬間に完結する「答え」である。もちろん、本だって、自らが「読もう」と思う本は、自分の読みたい本に違いないのだから、「読みたくない本」を読むはずはない。しかしながら、紙面を開いて目で文字を追いながら心に刻まれているのは、「答え」というよりは「問い」であり、さらにいえば様々な「気づき」であり「発見」である。

「耕す」というのは(地面を)ほぐして隙間を造ること。隙間ができるから水や空気や栄養が侵入していけるようになる。それと同様に、本に記された文章を読みながら頭にとどめようとするとき、私の心は解きほぐされて新たな見方や考え方が侵入する。

だから私は本を読むのだろうし、いつでも気になった個所に線を引くことができるように、蛍光ペンを持ちながら本を読むのだろうと、彼女に本を勧めながらしみじみと感じ入った。

Wasedaウェルネスネットワーク会長・中村好男

http://wasedawellness.com/

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