掲題の書(國分功一郎著、新潮文庫)を読んだ。
第一章の「暇と退屈の原理論」で、パスカル(17世紀フランスの思想家)の「気晴らし」についての考察を引用する。
》人間の不幸というものは、どれも人間が部屋にじっとしていられないがために起こる。
》部屋にじっとしていればいいのに、そうできない。そのためにわざわざ自分で不幸を招いている。
とのこと。さらに、
》人間は退屈に耐えられないから気晴らしを求める。
》ウサギ狩りをする人にウサギを渡しても嫌な顔をされるだけ。なぜなら、ウサギ狩りに行く人はウサギが欲しいのではないからだ。
》ウサギは、ウサギ狩りにおける《欲望の対象》ではあるけれど、その《欲望の原因》ではない。
》それにもかかわらず、自分はウサギが欲しいから狩りをしているのだと思い込む。
》つまり、《欲望の対象》と《欲望の原因》を取り違える。
》《欲望の原因》は部屋にじっとしていられないことにある。
》退屈に耐えられないから、気晴らしが欲しいから、汗水たらしてウサギを追い求めるのだ。
と、続く。
ただし、そこには条件があって、
》気晴らしは熱中できるものでなければならない。
という。なぜ熱中できるものでなければならないかというと、熱中できなければ、
》気晴らしの対象が手に入れば自分は本当に幸福になれると思い込んでいるという事実、
》もっといえば、自分をだましているという事実
に思い至ってしまうからだと言う。
思えば、ウォーキングであれ娯楽であれ、私たちが自らの意思で「楽しみ」を求めて行う行為は、そんな「楽しみ」を求める気持ちが、「暇と退屈」を避けるために生じているのではないだろうか。しかも《欲望の対象》と《欲望の原因》とを区別してみると、日常生活の中にはそれを取り違えているような局面もあるのではないかとも感じてしまう。
パスカルは、
》気晴らしには熱中することが必要だ。
》熱中し、自分の目指しているものを手に入れさえすれば自分は幸福になれると思い込んで、自分をだます必要があるのだ。
ともいう。
私たちが目指している「健康」も、言ってみれば「ウサギ」のような《欲望の対象》にすぎないのかもしれない。「健康」を手に入れれば幸福になれると信じ込んでいるのかもしれないということ。
では、「健康」を目指すことで私たちが本当に求めていることとは何だろうか?
ちなみに、パスカルは次のようにも言っているという。
》そんな風にして、《欲望の原因》と《欲望の対象》の取り違えを指摘しているだけの君のような人こそ、もっとも愚かな者だ。
これは、私のことかもしれない。
Wasedaウェルネスネットワーク会長・中村好男