WWNウエルネス通信 (2月13日):「死にゆく者の孤独」

表題の書(ノルベルト・エリアス著、中井実訳、法政大学出版局、1990)を読んだ。

著者は、「文明化の過程」の分析で嚆矢を放った社会学者。文明化された社会においては「死に向かうものは孤独である」と言う。それは、現代社会が死をタブーとし、それを抑圧・隠蔽しようとすることで、死を間近に控えた者が社会生活の表舞台の背後に追いやられるからだという。

今こうして私が「死」についての文章をしたためていることを、眉を顰めたり怪訝に感じたりする方の心情が、現代の「文明化された社会」の標準なのであり、「死」について興味を持って語る私は現代社会の異端者ともいえる。

そういえば、かつてまだ私の父親が存命中の正月、家族での会食中に「親父が死んだときの準備」について私が話題にしたところ、皆が一様に「なんてことを話し始めるのか」と非難の目で私を睨んだことが思い出される。ちょうど用を足して席に戻った当の本人にそのことを話したところ、当意を得たりと「遺言書と財産目録の存在(場所)」を語ってくれたので、皆安心してくれたのだけれど、死について語ることさえタブー視される雰囲気が、今の世の中を覆っていることは確かだろう。

エリアスの論考は40年前(原著は1982刊)のものであり、「病院で死ぬこと」が当たり前だった当時は、臨終の瞬間に家族が呼ばれて集まることはあったとしても、末期患者が自由な生活から疎外されることが当たり前の時代だったともいえる。

在宅終末期ケアが広がって、「終活」という言葉が一般的になった今の日本では、そのタブーは幾分かは緩和されているのかもしれない。とはいえ、私たちはやはりまだ、「死」を避けるべきもの、忌避すべきものと思う信条に縛られているのではないだろうか。

「死を生の重要なひとつの成分として人間像の中に新たに組み入れる」というメッセージが、本書でのエリアスの提案だ。つまり、「死」は「生き続けた証」なのであり、死を直視しながら「生」を充実させることこそが重要なのだというように、私は受け止めた。

そして、「死」を避けようとして、今の「生」を犠牲にするような生き方が、「死に向かう孤独」の一つになるのだろうとも思った。

「命」はもちろん大切だけど「生」の方が重要だ。それも、「死んでいない」という「生」ではなくて「孤独ではない」という「生」。さらにいえば「生き生きとした生」。

死ぬまで孤独にならずに生き生きと生き続けられることが、これからの成熟社会に必要なことなのだろうと強く思う。

Wasedaウェルネスネットワーク会長・中村好男

http://wasedawellness.com/

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