やっぱり「緊急事態宣言」が延長された。
今回は、「短期間集中的」と標榜していたのだけれど、効き目がないままに「延長」ということになったようだ。
まあ、多くの人が延長を望んでいるようなので、これが日本国民にとって最も良い選択なのだと思うのだけれど、私の手元に届くメルマガの中に「緊急事態が常用化しているように感じますね」というフレーズがあって、少し気にかかっている。
例えば「喘息」などの苦痛症状を和らげようとするとき、薬を用いることがある。最初は副作用の少ないマイルドな薬が用いられるのだが、それが効かないときには「少し強い薬」が用いられ、それでも効かないときには「強い薬」が用いられたりする。その薬が効かなくなったとしたら、もはや薬には頼れない。
高血圧薬のような薬は、治らなくても(効いたか効かないかがわからなくても)、そもそも症状に苦しみがないのだから、医者に処方されるままに飲み続けても良いのだけれど、喘息のような苦しみを伴う症状に苛まれていたとしたら、効かない薬を摂り続けるしかないというのは不幸である。
さて、このコロナ。「緊急事態」で困っている人は確かにいる。私はたいして不便に感じてはいないのだけれど、困ったり苦しんだりしている人のことを思うと心が痛む。
でも、その「困っていること」の本質的問題は、「緊急事態で困っている人」と「コロナウイルス自体に苦しんでいる人」が違うということ。いってみれば、「緊急事態」という様々な行動制限に耐えることは、「コロナに罹患して苦しむ人(かもしれない人)」を救うための奉仕的行為ともいえる。コロナ患者を治療する医療従事者であるならば、治療の効果があるかどうかについて、患者と共に一喜一憂できるのだけれど、「緊急事態で苦しんでいる人」にとっては、この自分の(他人のために甘受している)苦しみによって、だれがどれだけ救われているのかという「効き目」が分からないと不安だろう。
その意味で「感染者数」が減らないことに苛立っているのは、知事や役人ではなくて、苦労に耐えている国民なのだと思う。自分の感じる辛い思いによって「救われる人」がいるのなら少しは報われるけれど、「効き目が見えない」というのでは本当に報われない。
ところで、「薬」や「手当」を施す場合、それが「効かない」ということがわかったら別の手段を講じるのが当たり前だ。「効かなければ止める」というのが医薬の原則。「効かないから延長」というのは、普通はありえないのだけれど、「コロナ」という緊急事態は、そんな当たり前な事柄を当たり前と思わせないほどに人類にとっての新たな脅威なのだろう。
私は特に困っていないので、この「日常」を受け入れているけれど、本当に困っている人にとっては「緊急事態という日常」には耐えられないのではないだろうか。
この記事を読んでくださる皆様の「日常」が、平穏なものであることを切に願っています。
さらに言えば、皆様の生活の中から「ウォーク」という「日常」が失われないことも切望しています。
Wasedaウェルネスネットワーク会長・中村好男