【5】「認知症=異なる世界を生きる」

「認知症」とは不思議な病気である。

 普通、「病気」とか「病人/患者」と呼ぶとき、そこには「病で苦しんでいる人」の存在が大前提だ。ところが、「認知症」と呼ばれる症状の場合、苦しんだり困ったりしているのは、たいていの場合は、「認知症」と呼ばれる本人なのではなくて、その家族や介護者などの周りの人物のことが多いからだ。

 よく、認知症の症状には「中核症状」と「周辺症状(行動・心理症状)」の2種類があるといわれる。「中核症状」とは「脳の神経細胞の障害によって起こる認知機能障害」のことで、記憶障害、見当識障害、理解・判断力の低下、などの症状が現れるといわれている。でも、「最近物忘れが激しくて」と自覚できる人は、まだ認知症というレベルには至っていないようで、それを自覚できなくなったときに本当の認知症が疑われることになる。

 でも、よくよく考えてみると、これは奇妙なことだ。

 「忘れていること」を自覚できないとき、それは本当に「物忘れ」と呼ぶべきなのだろうか。

 私たちは、過去のあらゆることを覚えているわけではなくて、「忘れ去っていること」も意外に多い。他人に言われて「ああそうだったっけ?」とか「よく覚えているね!」などと返答するようなことがあったとしても、だれもその「覚えていないこと」が「物忘れ=認知症」なのだと考えたりしないだろう。それなのにどうして、高齢になって「覚えていないこと」が発覚したときに、私たちはそれを「記憶障害=認知症」と定義づけるのだろうか?

 さらに言えば、「周辺症状(行動・心理症状)」というのは、周囲の人との関係性の中で発生する症状なのであって、一人で閉じこもって生活している人(他人と関与のない人)には起こらない。そして、困ったり苦しんだりするのは、本人ではなくて「正常なはずの家族」だったりする。それならば、苦しんでいる人こそを「患者」と呼んでケアしなければならないのに、たいていの場合は、そこで苦しんでいる人は「認知症患者」をケアする立場の人だったりするのだ。

 だから、私は、「認知症は不思議な病気」だと思っている。もしかしたら、認知症を本当に「病気」と呼んでよいのかどうかさえ疑わしいのではないだろうか。

 それはさておき、前回、「見えている現実は人によって異なる」ということについて述べた。

 そこでは、「ウイルス」について、「根絶すべき敵」という見え方もあるけれど「共存すべき仲間」という見え方もあるということを紹介した。

 私たちは、すべての人々が「同じ現実」を生きていると思いがちであるし、「事実」という「現実存在」が唯ひとつだけ存在するかのように錯覚しがちだ。しかしながら、「事実」というのは、私たちがそれを認知して初めて意味を持つものであるから、その存在そのもの(絶対的な事実)がただ一つだけ存在するのではなくて、それを認識する一人ひとりの見え方に依存して「一人ひとりの事実」が存在する。

 私たちは、歩いていて道に迷うこともよくある。でも、いったん「記憶障害」を疑われた高齢者の場合は、散歩に出て道に迷ったとしたら「徘徊」と決めつけられることがあるのだ。本人がいくら「道に迷って」と弁明しても、受け入れられないこともある。「徘徊」なのか「散歩」なのかを決めるのは、いつも「正常」と認定される世界の住人であって、いったん「認知症」というレッテルを張られると、「自分の目に見えている世界(=現実)」が正しいと主張しても認められないことも多い。

 私たちは、一人一人が各々の「記憶と認知の世界」で生きている。前回、「私とは違う知識や知恵で世の中を見ている方々にとっては、私とは違う現実が見える」と述べたが、「認知症」と呼ばれる人の見えている世界が、「正常」と信じ込んでいる人々の見えている世界と全く同じであるという根拠はどこにあるのだろうか?

 「一人ひとりは別々の記憶と事実(認知)の世界を生きている」のだとしたら、「正常」と「認知症」の世界の狭間は、「健全」と「病気」の違いなのではなくて、ただ単に「見え方の違い」だけなのかもしれないのだから。

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