かつて、「話せばわかる」と説こうとして「問答無用」と射殺された総理大臣がいたという。90年近く前の5月15日のこと。実際にどのような会話が交わされたのかという真偽は定かではないが、このやりとりはその後、上述の2つの発語に簡略化されて伝聞されている。
そのほとんどは、「問答=議論」の大切さを解くものであり、「話せばわかる」=(善)、「問答無用」=(悪)という対立構造を前提とする。だから私たちは、「話して分かり合う」ことの重要性を教えられ信じている。
ところで、この善悪構造によって「話し合いの重要性」が解かれ続けるのは、じつのところそのような「話し合い」が実りを果たす場が意外に少ないことの裏返しなのではないかと、最近私は気が付いた。政治の世界や組織での意思決定の場では、「議論を尽くして一つの合意に至らなかった場合には多数決で」という不問律があるからこそ「多数を獲得するための議論」が模索されることを私たちは知っている。そして時として強引な採決や決議が行われることも周知である。でもそれは、政治や組織の意思決定の場だけではない。友達同士での合意形成の場合は、誰かが提案して皆がそれに首肯することがもっとも良い解決法だと信じられていて、「異論」や「議論」などの末に決定することは、多くの場合は望まれないし好まれない。もっと言えば、自分一人の意思決定(例えば昼に何を食べようかと考えるなど)の場合でも、「本当にそれでよいのか」などと熟考を尽くすことなど考えられない。そんな議論や熟考よりも「すぐに決めること」が優先されて尊ばれることも多いのだ。
それではどうして、私たちは「話せばわかる」という言葉(考え方)をこれほどに大切にしているのだろうか。これは、アメリカにおける人種差別問題(Black Lives Matter)のように少数者が差別されたり弾圧されたりすることを回避するための人類の知恵であり、それを(現実にはできていないとしても)理想として掲げて努力しようとする、いわば《お題目》の役割を果たしているのだと思う。
でも、それはあくまでも、社会や組織での意思決定の方法における理想論なのであって、ひとり一人が抱える問題を解決する際には役に立たないことも多いし、その論法が逆効果になることも多い。
例えば、今般のコロナウイルス禍。その初期(2~3月ごろ)に不幸にも感染した方がどのような仕打ちを受けたのかということは想像に難くないし、感染者(濃厚接触者)への差別的感情は今でも消滅していない。巷では、マスクを着用していない人への差別的視線も日常である。そのように、瞬間に沸き上がる感情に対して「話せばわかる」というアプローチはどれほど有効なのだろうか?
健康問題についても同様だ。2002年に公布された健康増進法は、主として喫煙者の権利を制限することで受動喫煙防止の観点で公衆衛生に寄与してきた。そこでは、「喫煙=悪」という構図が「問答無用」に受け入れられている。ところでこの法律は、「喫煙」だけにとどまらず「国民の健康の増進の総合的な推進」に関して包括的に関与しようとするものであり、「健康な生活習慣の重要性に対する関心と理解を深め、生涯にわたって、自らの健康状態を自覚するとともに、健康の増進に努めなければならない」ということが「国民の責務」として掲げられている。そして、そこに述べられている「健康な生活習慣」とはどのようなものかということについては定義されていないし、議論された形跡もない。つまり、私たちは「健康な生活習慣」という行動状態について「問答無用」に受け入れているということだ。
さらにいえば、2008年から始まった特定検診・特定保健指導では、国が定める「検診」によってチェックされて基準に抵触した国民が、それを是正するための「保健指導」を受けることになっている。「健康とはいかなる状態であるか」ということは、ひとり一人が決めるべき(決められる)ものだと私たちは信じているのだけれど、「健康的生活習慣」という理想の状態が存在していて、それを定める国家の一律の基準があるということに疑いをはさむ人は少ないし、「健康的な生活習慣」に関しては、もはや議論の余地はない。そしてそれは「肥満」への偏見と差別の温床となる。
あれっ。いつのまにか、議論がすり替わっている?
「論議を尽くすこと」あるいは「大勢に従うこと」は良いことなのか、悪いことなのか?
少し筆が過ぎたけれども、私たちの暮らしの中には「問答無用」が意外に多いということと、その「問答無用」の中には、「本当にそれで良いの?」と疑問に思ったり論議を尽くしたりしたほうが良いと思われることも少なくないことを強調しておきたい。
人種差別やコロナ感染者への偏見などを例として「少数者への差別」を問題とするときは、それは確かに「matter」になるのだが、「喫煙」とか「肥満」も含めて「非健康的生活習慣」に対しては、その少数意見を尊重しようとする空気は薄い。これは、どちらかが本当で、どちらかが間違っているというような問題ではない。
じつは、「話せばわかる」という考え方に容易に染まらないこと、すなわち「話しても分からないことがある」と認識することは、新しい時代のフィットネスにおいても重要な考え方だし、新時代のインストラクターが習得すべきスキルの一つにもなるのだ。
(続く)
(JWIコネクトに連載中。閲覧はアプリから→ https://yappli.plus/jwi_sh )