昨日朝、NHKラジオ(Saturdayエッセイ)で、養老孟子さんの講演を聴いた。
(聴き逃し配信は ⇒ https://www.nhk.or.jp/radio/ondemand/detail.html?p=5642_06)
タイトルは、「病床にて再考したこと」。
》6月の終わりごろに「なんだか具合が良くない」と感じて病院に行った
》「具合が悪いところはない、痛くもかゆくもない」のだが、
》体重が一年前に比べて15㎏も減った。
》心電図と血液の検査だけで「心筋梗塞」との診断。
》そのまま緊急入院して半月後に退院。
と、養老さんは言う。
》本当に悪いときは体から何かの信号がある。
》生命にかかわることは体の方が知っていて、具合が悪いよとの信号を送る。
》素直にその信号を聞いて病院に行って良かった。
入院中はICUに入り、家族からも社会からも完全に隔離されて医療の管理下に置かれた様子。そこで
》「医療は(社会全体も)二つの方向に分かれている」と感じた
とのこと。
一つは徹底的に管理する。食べ物から生活の仕方まで身体や生活行動を徹底的に管理して病気を防ごうとする方向。
それに対して、もう一つはできるだけそういうことはしない。できるだけ手を付けないという考え方。
そして、
》大切なのは「中庸」。
》ただしこれは、「平均して真ん中を取る」というのではなくて、「状況によってどちらかを取る」という考え方。
なのだと言う。
思えば、「徹底的に管理する医療」はこれからもどんどんと進んでいくが、管理に身を任せれば自分自身の自由は束縛される。
一方で、「自然に任せる、できるだけいじらない」ということができれば生活の質は満たされるけれども、自身の身体で対応できなくなった時には病院に身をゆだねざるを得ない。
それを使い分ける(どちらかを取る)ことが重要なのだということだろう。
でも、それは、「病院が嫌いで薬も飲まないし検査も受けない。病院に行かないということで83歳まで頑張ってきた。」という養老さんだからこそできることなのではないか。
つまり、「体が不調を訴えたときには病院に頼る(それ以外は行かない)」という決断は、普通の人にはなかなかできないことなのではないだろうか。
普段から、病院に行って薬をもらっている多くの人にとって、「完全に自然に任せる」という選択肢は取りようがないのだ。
おそらくは、養老さんにとって「薬を飲みながら(自身の生活を)コントロールする」というやり方は「中庸」なのではないのだろう。もしかしたらそれは、「中途半端な生活」ということを意味しているのかもしれない。
それはさておき、養老さんは最後に、このように述べた。
》死ぬことについてもそう。徹底的に管理するか、自然に任せるか。
》現代の医学ではほとんどが統計で処理されていく。
》それが正しいかというと、そういうわけではない。
》国家が国民の体を管理しようという考えは、昔からあること。
》そういう状況でコロナが起こったというのは、興味深い現象。
》どこを自然に任せてどこをコントロールするのか。
》我々が抱えている問題は結局そこにいきつく。
声にいつもの張りがなく、もしかしたら癌なのではないかとも案じたのだが、養老節はいつも奥が深い。