WWNウエルネス通信 (2020年8月30日):「人間における自然ということ(前編)」

さて、前々回「整体入門」、前回「風邪の効用」と、野口晴哉の著作の内容を紹介したので、ちくま文庫による三部作の最後を飾る「体癖」にも触れたい。

 これは、野口晴哉氏の思索の中核ともいえる思想であり、「個人の身体運動はその固有な偏り運動に支えられている」という基本思想に由来する。「その偏り運動はその固有の運動焦点の感受性が過敏であるために生じて」いて、「電車の中で見かける奇妙な格好も、吹き出すような寝相も皆この偏り運動の焦点を休めるための努力であり、それは体の自然な自律的現象」だという。「偏り運動の焦点における不随意的な緊張、弛緩が、個人の身体運動の主体を成して」いて、「その運動焦点の動きが、体の他のいろいろな部分と連動して全体の動きとなる」。

 例えば、「一本橋を渡るのに、その平衡を保つためには体全体の動きとなり…血行でも分泌でも内蔵運動まで、手や足と同じように動きを変え、石で動かしているはずの手や足も無意に動いてしまう」とのこと。このような原理は、最近(20年ほど前から)「筋膜」という考え方で、解剖学的・運動学的な根拠が少しずつ明らかになってきていることである。が、そんな考え方が医学の主流になる半世紀以上も前に、上記のような《原理》を見出したということに、今回(じつは初めて)読んでみて、改めて「野口整体」の深淵に感嘆した次第である。

 ところで、本書は(前2書も含めて)、1950年代・60年代の20年間に野口氏が弟子などに説諭した講演に基づいて編纂されたものなのであるが、冒頭に「人間における自然ということ」という小論が掲載されている。ここでは、今般(20世紀前半)の科学医学の進歩に触れたうえで、これらは「環境を自分に都合の良いように変え改め」る進歩であり、「環境を人間に適応させることによって生きているのである」と述べる。「動物のすべては、環境に適応してその機能、形態を変える」のだが、我々の科学技術の進歩は「体が進歩したとか丈夫になったとかいうこととは違う」とも断じる。

 「敢て言えば鎧が厚くなり、刀が長くなったというだけのこと」であって「人間の体は庇われ守られ補われると萎縮を来す性質をもっているのだから、医学の進歩ということが今日のごとき体の逮捕の基となった」という。

(続)

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