新常態のスイミングクラブ~その3~

新常態では、「非接触/オンライン化」が求められるとはいえ、「オンライン化」は絶対必要条件ではない。人間が、根本的に社会的生物である以上、文字通り(人と人との)《間》を構成するメディア(=空間)がバーチャル(=機械的=AI介入可)空間だけに依存することはできない。その代表として、「生殖行為」があげられるが、食事摂取という生物本能的行為もまた、人間世界では社会的交流の機能を有することは言うまでもない。つまり、人間はそもそも「人と人との交流接触=社会的関係性」を前提とする生命体なので、人間関係のすべてを「オンライン」で代替することはできないのである。

これは、20世紀の人間社会の移動行動を席巻した「自動車」という移動メディア(=道具)が、人間生活に必要不可欠な存在になったからと言って(なっていったからこそ)、究極の機会移動の手段としてのセグウェイのような移動用具にまで徹底普及せずに、「歩くこと=ウォーク」の重要性意識が際立っていることと同等である。だからこそ、オンラインスポーツの代表であるeスポーツ(電子ゲーム)が広まってもなお、「リアルなスポーツの重要性」が色褪せないのだ。

ここでいう「オンライン」とは、究極の姿が電子ゲームに昇華するタイプのスポーツの様態なのではなくて、あくまでも、スポーツ指導における指導サービスの提供サイドと需要サイドとの間のサービス交換空間が「オンライン」で行われるということ。フィットネスをはじめとする各種スポーツの指導・教育形態が「オンライン空間」で展開される余地(=可能性)があって、それがリアル空間でのスポーツを豊穣にする役割を果たすということなのだ。たとえて言えば、将棋におけるAIの役割と言えば良いだろうか。

このまま続けると、本論から外れてしまうかもしれないので、慌てて話を戻すことにするのだが、そのような「新常態」において、スイミング(水泳)はどうなるのか。

先に(前回)述べたように、「スイミング」については、「水のプール」をどうしても必要とする以上、完全な「オンライン化」に舵を切ることはほぼ絶望的なのだ。それでは「スイミング」は絶滅するのか?

「オンライン化」が不可能だということは、ことスイミングに関しては「オンライン・スイミング」というライバルの出現がないということ。だから、これまでと同形態の施設指導サービスを提供していたとしても、急激に顧客が減少するということにはならない(と安心する方もいる)かもしれない。

でも、スポーツに限らず世の中全般に「非接触」という概念が浸透していったとしたら、少なくとも、「イモ洗い」という混雑環境は嫌われる。つまり、これからは、プールの中だけではなく、更衣室もシャワーもフロントも含めて「ゆとりあるスイミング環境」を提供できるかどうかが肝になる。

施設中心のサービス運営に当たっては、混雑を解消してくつろぎとゆとりを提供する《高付加価値サービス》を中核としてのビジネスモデルを設計する必要がある。例えば、フィットネスクラブが日本に普及した初期には、ピープルが開発した現在の低価格モデルに加えて、スパ白金のような「高級サロン型」のフィットネスクラブも模索された。90年代以降は、前者のモデルがフィットネスクラブの典型として広まっていったのだが、それらへのニーズは、今後は「オンライン型」に移行していく。そして、これまで多くの標準的フィットネスクラブが提供してこなかった後者のタイプ、すなわち《高付加価値モデル》が新常態における施設型フィットネスの基幹になるだろう。

スイミングは、混雑したフィットネスクラブに比べて、少しだけ「ゆとりのある空間」を提供していたとはいえ、さらなる「ゆとりある空間」の提供が求められるのである。子どもであれば喜ぶような《混雑》の状況も、ゆとりある空間を提供する「高級サロン型」のフィットネスクラブを当たり前に感じる高級顧客にとっては不快な状況。これからは、スタジアム(スポーツ観戦)も博物館・美術館のような文化施設も、ディズニーランドのようなエンターテイメント施設も、ゆったりとした自分の時間を消費できる空間に変わっていく。そのような時代に、スイミングクラブはどのようなサービスを提供できるのだろうか?

スイミングの施設も、あらゆる文化・スポーツ・教育施設と同様に、混雑を喜ぶ客はいないはずで、ゆったりとくつろぎながらサービスを享受することは、従来においても望まれていたことなのだ。そしてまた、多くの施設でゆとりあるサービス消費環境がどんどんと整っていったとしたら、これまで普通だった混雑状況であっても不快に感じる顧客が多くなる。今は、「ウイルス感染を恐れて」の故だと信じて疑わない方々も、いったん「ソーシャルディスタンス」として確保された自分の周りの占有空間の広さに馴染んでしまったら、もう後戻りはできない。ウイルスが撲滅されたとしてもなお、混雑空間は嫌われる。

つまり、今回の騒動によって皆が気づくのは、「これまでが混みすぎていたのでは?」ということであって、「3密」などという言葉が流行る前から、「ゆとりある空間」は、世の人々の潜在的ニーズだったのだ。

「非接触」は、電子カードだけの話ではないのだ。

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