新時代に向けたフィットネス根本原理の変革の2つ目は、《指導》から《教育》への転換である。先に(前々回)述べたように、この転換は、3つ目の《個人》の重視という流れとも関連する。人々が社会の仕組みの中でしか生きていけなかった時代には、世間の定型の中で自身の《生き方》を決めていくことしかできなかったのだが、ひとり一人が自身の人生の営みを自分で開拓することが珍しくなくなった時代には、《個人=自分の生き方》を模索し、それを支援する環境が求められるようになった。それゆえ、世間一般が「正しい」と認める状態に導こうとする《指導》の手法なのではなくて、ひとり一人が自らの生き方を自分で決められるようにしようとする《教育》の要素が大きくなってきているということなのだ。
これは、最近始まったことではない。例えば、スタジオでのレッスンにしても、ただ単にエクササイズ(消耗)の機会を与えるだけではなく、インストラクターは参加者に対して一つ一つのエクササイズの意味を感じさせているはずだし、なによりも参加者個人の満足感を大切にしているはずだ。また、パーソナル指導においては、単に運動させるだけではなく、それらの運動の意味を同時に教えていることだろう。なによりも、運動しようとする気持ち、あるいはフィットネスの嗜好は、ひとり一人の生きがいと幸福を実現していくためのプロセスとして自ら決めていくことなのであって、専門家が指南する状態へと導かれていくだけではないということは、今では当たり前の考え方なのではないだろうか。
もちろんそこには、専門家の導きも重要な役割を果たすのであるが、それはただ単に「言われたことに盲目的に従う」ということを意味するのではなくて、その過程で運動のやり方や楽しみ方、あるいは健康との関連についての「知識を得る」あるいは「学ぶ/気づく」という本人の心理状況の変化をもたらすための支援、すなわち《教育的要素》が重要な意味を持つのである。
ところで、「指導者」ということばが普通に使われるようになったのはいつ頃のことなのだろうか。新聞記事を検索してみると、「指導者」という言葉が最初に現れたのは、1987年(明治12年)。6月10日の毎日新聞号外に「西南戦争:薩摩軍指導者・桐野利秋が四国入りの情報」という見出しが躍った。これはleaderという英語の訳語としての「指導者」であり、その後も、明治時代においてはおおむね「ナショナルリーダー」というカタカナとともに「指導者」という日本語が用いられていた。その後、「指導者」という用法は、宗教や業界あるいは団体のリーダーの意でも用いられるようになり、1917年には、「国立の体育研究所 大戦乱に鑑みて愈設置 体育指導者をも養成する」との見出しが朝日新聞に載った。これは、嘉納治五郎を筆頭とする国民体育運動の「指導者」を意味しているもので、「体育」が国家に必要な強健な身体育成を本務としていた時代に、その身体づくりを《導く》ことが「指導者」に求められていたのである。
戦後、1947年に日本体育指導者連盟が結成され、「体育」における「指導者」の役割が確固としたものになったが、このころにはその意味が少しづつ変わってきたようだ。1950年に、「スキー:指導者検定講習会」という記事(毎日新聞 1950.01.21 東京朝刊)が掲載されたが、ここでの指導者はleaderというよりはinstructorの意。このように、日本語の「指導者」という語は、「国家を導く」~「思想・運動を導く」~「組織を導く」というleaderの概念がさらに拡張されて、スポーツの技術の伝搬の場面でのinstructorにも利用されるようになった。ただ、「指導」という日本語には、《導く》という文字通りの含意があるので、どうしても「(世間が)正しいと認める状態に導こう」とする考え方が包含されていた。1980年代から始まったフィットネスの指導者にも、同様に「正しい知識に基づいた技を伝搬する」という役割が期待されるようになったのである。
(続)
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