先ごろ、「健康な高齢者マーケット」という言葉に出会った。
「健康」と「高齢者」という二つの言葉を並べると、「高齢者がいつまでも活き活きと健康で過ごす」というイメージが思い浮かぶ。そして、フィットネスにかかわる私たちは、「高齢者を健康にしている」という意識になりがちなのだが、そもそも、フィットネスを楽しんでいる高齢者のほとんどは「健康」なのだから「健康な高齢者のためのフィットネス」という考え方があっても良い。
思えば、《スポーツ》は高齢者を健康にするための手段となる。でも、スポーツが与える喜びは、何も「健康になる(する)」ということだけにとどまらない。健康になるとかならないといったことに価値を置くのではなく、そもそも「健康な高齢者」というたくさんの人々が、喜びや幸せを求めて日々の生活を営んでいるという実態に目を向けて、その「健康な高齢者のためのスポーツの価値」を想像していくことも大切だろう。
では、《フィットネス》ならばどうだろう。
《フィットネス》というと、とかく「健康のため」というフレーズが注目されがちだ。もちろん、それはフィットネスの大きな役割だし、それを期待して参加する方が多いことも事実。だから、《スポーツ》という表現に比べると、《フィットネス》という言葉には、「健康のため」というイメージが持たれやすい。フィットネスという言葉には「良い状態」という意味が含まれているので、その「良い状態」を目指す活動(身体運動)こそが《フィットネス》なのだとの考え方は王道だ。
でも、「健康のため」という言葉とは無関係にフィットネスを楽しんでいる方々も少なくないのではないか。
そもそも、「健康のため」とか「健康を維持するため」という《目的》は、「健康」という理想像を前提として、「不健康」という反対像を否定するところから生まれる。それが高じると、自身が病気=不健康になることを極度に心配したり、苦しんでいる患者を哀れんだり忌避したりする心持ち(ウイルス感染者との接触を避けたいというような気持ち)につながる可能性もある。さらには、虚弱な高齢者を「社会的支援を受けなければならない人」とみなしたり、認知症高齢者を「自分で判断できない人=自分の意志で行動してはいけない人」と決めつけたりするような考え方にもつながっていく。つまり、「健康」という言葉を目標とする見方だけでは、不健康な方々や虚弱者・障害者を自分(健常者)よりも低くみて、「私はそうなりたくない」というような反理想像として位置づけることにつながりかねないのだ。
冒頭に戻ると、「健康な高齢者のためのフィットネス」という考え方は、不健康な方や虚弱者・障害者を否定するものではない。それどころか、今私たちが提供しているのは「健康な高齢者」のためのプログラムだけれども、「虚弱者のためのフィットネス」もあるし「障がい者のためのフィットネス」もあるというように、私たちの考え(視点)を広げる端緒ともなる。
《フィットネス》は、あらゆる方々に喜びと幸せをもたらす手段。
だから、フィットネスは素晴らしいのだ。
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