WWNウエルネス通信 (5月7日):「禁止・要請・許可・日常?」

「すみません。通ってもよろしいでしょうか?」

昨日のウエルネスウォークでの最初の休憩地点である尾久の原公園の出口で、前方から自転車で公園内に入ってきた女性(おそらく50歳代)から声をかけられた。私たちは10人ほどの集団だったのだが、公園内だったので少し広がって歩いていたようでで、道をふさぐ形になっていたのかもしれない。

私は先頭を歩いていたので、その《声》は背中で聞いたのだが、一緒に歩いていた小林さんに、

「まさか今の方は、私たちに《許可》を求めたわけではありませんよね?」

などと、冗談めかして呟いたのを記憶している。つまり、「通っても良いか?」という(あたかも許可を求めるような)言葉は、「道を開けてください」という《要請》に違いないと思ったのだった。

 そういえば、知事や政府が口にする「外出や休業」の《要請》も、実のところは《指示・命令》に相当するような威力を持っているし、日本語をその言葉の文字通りに受け止めるのは子どもじみている。

 と思いながら公園の出口を進むと、その横に(駐輪場ではないのだが)自転車が数台停まっていた。その正面の看板には、公園の利用案内が記されてあって、その「禁止事項」の中に、「自転車の乗り入れ」という文字があった。

 「もしかしたら今の女性は、本当に『許可』を求めようとしたのかもしれませんね。」

などと、今度は、冗談とも言えない呟きに変わった。

 とはいえ、自転車の乗り入れが禁止されている公園に「通っても良いか?」と申告しても、「良い」と許可する人はいないだろう。でも、そもそも私たちには許可する権限も拒否する執行力も持ち合わせていたいのだから、その「許可を求める」行為そのものは無意味だ。

 でも、そこでまた私は思いついた。

 そもそも、看板に「禁止事項」が記されているからといって、その「禁止」は誰が何のために決めたのか。また、それを看板に掲示するだけで万人が理解して従うと思い込むのは安直だろう。結局のところ、その公共の空間を利用する人々が不快に思わないように、また不便をきたさないように、皆(各々)がお互いに配慮して行動し言葉を交わしあう。そんな中で発せられた言葉が「通っても良いですか?」との発声なのだ。それは許可を求めての言葉ではなくて、すれ違うお互いの間の心の摩擦を取り除こうとする試みに違いない。

 ややもすると、公園でくつろいでいること自体が《悪》と思われかねない時勢の下で、皆各々がさりげなく摩擦を避けようとしている。それは、いきなり発せられる「緊急事態」とか「ステイホーム」などの(命令に近い)政府要請に対する、庶民の対策の一つなのだろう。

 ということを、《ウエルネスウォーク》という日常を過ごしながら考えた。

Wasedaウェルネスネットワーク会長・中村好男

http://wasedawellness.com/

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