本日は、京都・同志社大学で開催された「日本スポーツ産業学会」に参加した。
午前中のシンポジウムのテーマが「スポーツ産業が作る地域の未来」。その中で、
「健康な高齢者マーケット」
という言葉に出会った。舞台のスクリーン上に表示されたその《文字》を解説する際に、その講演者は「高齢者を健康にするのではなく、そこに健康な高齢者がいる(=健康な高齢者というマーケットがある)のです」と言った。
そうなのだ、《スポーツ》は高齢者を健康にするかもしれないし、そのための《スポーツ産業》も盛んである。でも、スポーツが与える喜びは、何も「健康になる(する)」ということだけにとどまらない。健康になるとかならないといったことに価値を置くのではなく、そもそも「健康な高齢者」というたくさんの人々が、喜びや幸せを求めて日々の生活を営んでいるという実態にもっと目を向けて、その「健康な高齢者のためのスポーツの価値」を想像していくことが大切だということなのである。
そもそも「スポーツ産業」に関する学会なので、ただ単にスポーツを実施したりスポーツ用品を購入したりということばかりではなく、スタジアムで観戦したりテレビを見たりといった(時間や金銭の)消費行動も分析対象となる。もちろん、プロリーグの運営やスポーツ団体のガバナンスも研究対象だ。だから、そこで注目する「スポーツの価値」には、《する》だけではなく《みる》ことや《支える・関わる》ことも含まれる。そして、その喜びが多ければ多いほど、それに時間を使うしお金がかかることもいとわなくなる。
私たち(Wasedaウエルネスネットワーク)が主催する「ウォーク」も、「高齢者を健康にする取り組み」というよりも、「健康な高齢者のための取り組み」と言った方が腑に落ちる。
でも、「健康な高齢者を幸せにする!」と声をあげたとしたら、「健康ではない高齢者」を疎外することにつながってしまうだろうか?
否。そんなことはないはずだ。
そもそも、私たちは、「すべての人々」を幸せにすることなどできない。国家の目標としては「すべての人々」を対象とするのも当然だけれども、私たち一人ひとりにはできることに限界があるのだから、「なんでもかんでも」と対象を「すべて」に広げてしまっては、できることもできなくなってしまう。「あぶはち取らず」にならないように、私たちの一つ一つの取り組みが「誰のためのもの=誰を幸せにするのか」という《マーケット》を絞り込むことも大切だろう。
「スポーツが人々を健康にする」という考え方はさておいて、「健康な人々を幸せにするスポーツ」について、これからしばらくは思考を巡らせたい。
Wasedaウェルネスネットワーク会長・中村好男