昨年秋のこと。夕刻帰宅すると、
「今日、ころんじゃった」
と、妻が訴えた。自宅から江戸川橋駅に向かう途中の大日坂を下っているとき、ふと気づくと右脚が前に出ずに身体が傾いていったとのこと。
「手は出たか?」などと根掘り葉掘り尋ねると、左手掌を突いてから右ひじをついて、文字通り“転んだ”ということがわかった。
「擦りむいたでしょ?」
と尋ねると、肘も擦りむいたけれど、それよりもコートのひじが破れたことが悔しいという。
「皮膚は治るけど洋服は治らないからね」
と慰めるしかなかった。コートのことは諦め切れない顔で、
「これで大人(老人)の仲間入りかも」
と、自分を納得させていた。
小林秀雄は、自身の還暦に際して、「せめて、これを機会に、自分の青春は完全に失われたぐらいの事は、とくと合点したい」と述べていたらしいが、今年で還暦を迎える妻にとって、それが“青春の終焉”の入口なのかもしれない。