「医療ガバナンス学会(MRIC)」のメールマガジンで、表記の記事が配信された。
※全文はこちら→http://medg.jp/mt/?p=8849
東日本大震災で被災した高齢者のために相馬市が造成した公営住宅(長屋)で、月に一度「健康相談」を行っている医師が、受診者の一人から「入居者の1人が、『お金が盗られた』と騒いで困る」との相談を受けたとのこと。
これは典型的な「もの盗られ妄想」であり、一般的な「認知症患者」に良く表れる症状である。そこで、「もとから通っていた主治医に連絡して認知症の治療を開始していただいた」上で、「住民には認知症についての説明を行い、本人を厳しく責めても状況が好転しないこと、なるべく不安を理解してあげるのが大切であるということを伝えた」とのこと。しかし、「家族でもない住民が、そのストレスを許容することは限界だった。結局、その住民は長屋を出て家族と暮らすことになった。」ということであった。
その「長屋」は、とても活気があって「朝6時から住民全員でラジオ体操をする、年に数回は旅行へ行くなど積極的な住民活動が行われていた」コミュニティであって、「みんなで健康を維持しようと積極的に心がけている」ことが伺えて、理想的な「互助」ができているものと安心していたとのこと。ところが、「健康であること」を共通価値とすると、「健康であるべき」という規範が生じてしまい、逆に“健康でなくなった人”を疎外してしまうということに、今回の事例から気づかされたという。
自治体などのキャンペーンで「介護予防」が喧伝されると、「すでに介護サービスを使っている高齢者には罪悪感が生じるし、新規に介護サービスを開始することを躊躇する高齢者も出る。理想的な健康を維持できるという幻想を追い求めることは、住みやすい社会にはつながらない」という。
最近は、「健康寿命」という考え方が流行っていて、「健康」を「健幸」と置き換えて「健康で幸せ」という理想の生き方を求めようとする動向もある。もとよりそれは、単なる「寿命=延命」に対するアンチテーゼとして生まれた考え方なのだが、「健康寿命」という概念が広まることが、逆に“健康ではない人”を疎外する結果をもたらすことがないように、留意することが必要だろう。